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復活節第6主日礼拝 説教 「わたしたちはひとりではない」

日本基督教団藤沢教会 2020年5月17日

【旧約聖書】出エジプト記 33章7~11節
 7モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。8モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。9モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。10雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。11主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 16章25~33節
 25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」


わたしたちはひとりではない
 イエス様は、この朝、私たちに次のように仰います。「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」と。そして、イエス様のこのお言葉は、コロナ禍の中にあって沈みがちな私たちにとって、今、私たちが一番聞きたいお言葉でもあるのでしょう。私たちの誰もが、イエス様によって励まされたいし、元気づけられたいと思っているからです。ですから、この朝、イエス様が私たちに向かって、こう語りかけてくださっていることは、とても意味深いことのように思います。私たちのことをイエス様が分かってくださっているという、何よりの証拠だからです。それゆえ、この言葉にどれほどの人々が励ましを受けることかと思います。きっと、この言葉に背中を押され、勇気を出して、このコロナ禍を生きていける、生きていかねば、そう思う人は少なくないことでしょう。しかし、その一方、この言葉に励まされる人ばかりでないのも確かです。イエス様のこのお言葉によって、確かに励まされる人は多いのでしょう。けれども、このイエス様のお言葉に聞いているすべての人が、皆が皆同じであるわけではありません。むしろ、その反対に、返って気持ちを沈ませる人たちもいることでしょう。なぜなら、勇気を出せと言われ、出せる人はいいのですが、出せない人は、強く言われれば言われるほど、それができない自分をいやっと言うほど思い知らされて、返って嫌になってしまうものだからです。特に、言葉ではなく、イエス様に具体的なものを求める人はなおのことそうなんだと思います。求めるものが直ちに手にすることができるならまだしも、そうでないとしたら、言葉の上での励ましは励ましにならないことにもなるからです。
 けれども、イエス様も闇雲にこのような声かけをしているわけではありません。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、しかし、勇気を出しなさい」と仰るように、ただ勇気を出せ、勇気を出せと言っているわけではないからです。生きる上での苦しみをすべてご存じの上で、勇気を出しなさい、元気を出しなさいとイエス様は仰るのであり、ですから、イエス様のその思いとすれば、打てば響くとばかりに、直ぐに分かりました、はい、頑張りますと、気持ちいい返事を返すことのできる人ばかりに何かを語ろうとしているわけではありません。むしろ、イエス様が積極的に何かを伝えたいと思う人はその反対の人たち、イエス様のその言葉に耳を塞ぐ人たちだということです。直ぐにいい返事が返ってくる人たちは自分でなんとかできる人たちです。けれども、息も絶え絶えの人たちはそうではありません。その人たちは医者を必要としている人たちであり、ですから、いい返事を返すことのできない人たちに対してこそ語られているのが、この勇気を出して、という一言であるように思うのです。

 じゃあ、勇気を出しなさいとの一言に励まされ、勇気凜々、元気いっぱいの様子の人たちのことをイエス様はまったく顧みることもないのかというと、そうではありません。ちゃんと見ているのは間違いありません。なぜなら、やる気満々の人たちが本当にイエス様のお言葉を分かっているかというと、必ずしもそうでない場合があるからです。例えば、こうしなさいねと、目上の人や先生から言われると、素直にそうしなければと思い、自分自身を叱咤激励し、必死になって頑張ろうとする人がいます。そして、それは、とても立派なことであり、それゆえ、その一生懸命さは多くの人の賞賛を得ることにもなるのでしょう。特に、今のような状況の中で、常に前向きであろうとすることはとても大事なことでもあるからです。でも、元気そうに見えても、もしかしたら、それは、無理してのことなのかもしれません。そして、そうした姿を、私たちは、子供たちの中によく見ることができるのですが、ただ、子どもにとって、多少、無理をさせてあげることは意味のないことではありません。無理して、背伸びしてやってみなければ、その子の成長が促されることもないからです。しかし、多少の無理が意味を持つのは、回りの大人が、無理がいつまでも続かないことをよく分かっているからです。これくらいなら大丈夫かなと気遣ってあげて、「もうそれぐらいにして休もうか」と、そう声をかけてあげないと、良かれと思ってやっていることも、返って逆効果でしかないからです。

 ですから、そう考えると、この勇気を出しなさい、との一言がどういうところから発せられているかが分かるように思います。それは、イエス様が私たち一人ひとりのことを普段からよくご覧になり、ご存じであるということ、そこから語られているものが、この勇気を出しなさいという言葉なんだと思います。つまり、いつも普段から一緒にいてくださっているお方の言葉として、私たちは、この「勇気を出しなさい」という言葉を聞いているということです。一緒にいるということは、その一人ひとりのことが目に入っているかということがとても大事なことだからです。まただから、イエス様も、ここに至るまでいろいろなことをお話され、そして、そうした一つ一つの話を通して、私はみんなと一緒だよ、見ているよ、分かっているよと、共にいる人たちに一生懸命にそのことを伝えようとされたのです。特に、この箇所は、イエス様が十字架につく直前のことで、いわゆる、イエス様の決別説教と言われているところです。ですから、私たちが、このイエス様のお言葉の意味を本当に知りたいと思うなら、私たち一人ひとりに合わせるように語りかけるイエス様のこのお気持ちを先ず受け止めるところからはじめたいと思うのです。そして、それが、今申しました、みんな一緒だよ、ということであり、そして、ここでは、それを一言でまとめるように、イエス様は、「あなた方が私によって平和を得るためである」と仰るのです。

 イエス様がそこで「わたしによって」と仰ることは、イエス様にあって、イエス様の中で、ということです。つまり、英語で言うところのin Christ ということです。そして、それが、今申しました、みんな一緒だよ、という感覚を私たちに与えることになるのです。つまり、イエス様との一体性が私たちに約束されているからこそ、そこで私たちのその足下がどんなにぐらぐらしたとしても、私たちそのものは揺らぐことはなく、主の祝福の中に生きることができるのです。このことはつまり、私たちとイエス様とはそれだけ親しい関係にあるということです。ですから、イエス様は、イエス様と私たちとの、この親しさについて27節でこう仰るのです。そこには「あなた方が、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである」とありますが、その中でイエス様が愛すると仰っていることは、観念的な愛を語るものではありません。親しみをもってということであり、そういう意味で情感たっぷりに語られているのが、ここでの「愛する」ということなのです。だから、イエス様によって得られる平安は抽象的で観念的なものではありません。まただから、信じるということも同じです。ですから、この、勇気を出しなさい、元気を出しなさい、とのイエス様のこの一言も同じで、それゆえ、イエス様のお言葉は、ただ言葉だけがポーンと私たちの目の前に投げかけられるようなものではありません。繰り返し何度も語りかけられているものであり、ですから、イエス様をと一緒に生きる私たちにとっては常日頃からのものであるということです。私たちはそういう具体的なものを常日頃よりイエス様より受けているわけで、ですから、だから、もっともっと頑張らなきゃ、とか、どうせ自分は、とか、そんなふうに思わされることはないのです。

 そう考えると、この勇気を出しなさないとのイエス様の呼びかけは、私たちにとっては、目新しいものではありません。これまでと同じ、いつもと変わらないということを、私たちは、今日のイエス様との出会いの中で再び聞いているわけで、ですから、ここで言われている勇気を出すということは、私たちにとっては、何か特別な次元まで自分を高めなければならないということではありません。いつも通り、普段通りにということであり、ですから、それは、イエス様と私たちの関わりの基本的な事柄にぞくするものであり、それについての気づきを与えるために、イエス様はこの声かけをなさったということです。従って、イエス様と私たちの関係性は今までと同じであり、これからも変わることはありません。互いにここから離れることがない以上、この世の苦難に直面する私たちが常に帰るべきところは、イエス様が「わたしにあって、私と共に」と仰る、イエス様と共にいます平安であり、その中にこそ、私たちの居場所があるということです。そして、このことはつまり、私たちが求めるその時々の答えは、どんな時にもこのイエス様との交わり、この平安の中で与えられるということです。ですから、今日は、この勇気を出して、というこのイエス様のお言葉を通して、このことをそれぞれの心にしっかりと刻みたいと思うのですが、そこで、その上で考えてみたいのです。このみんな一緒だよ、と言われるイエス様との関わりの中にしっかりと身を置き、勇気をもってこれからを私たちが生きるということは一体どういうことなのでしょうか。

 不要不急の外出を控えよ、と、お上が求める様々な制約の中に、今、私たちは生きています。その中で、私たちが最も困っていることは何でしょうか。それは、通勤、通学然り、買い物然り、映画、コンサート然り、友人との出会い然り、旅行然り、私たちが大切にしている日々の営みのすべてにストップがかかっていることです。そして、この一つ一つの中に、私たちが何のために生きているのかと問われたときの理由のほとんどが含まれているようにも思うのです。けれども、今は、それが許されない、だから、私たちは困っているのです。ですから、このことは、当然、私たちの暮らしに暗い影を落とすことになります。そして、暗い影を落とすだけでなく、私たちの交わりそのものを破壊しかねず、事実、破壊されている現実を目の当たりにさせられてもいるのです。そして、それは、私たち教会も例外ではありません。

 勇気を出しなさい、とのイエス様のこのお言葉は、普段通りに、いつも通りに、ということであり、それゆえ、今この時だからこその励ましであると先ほど申しました。けれども、では、今、私たちは、普段通り、いつも通り、なのでしょうか。非公開の形で礼拝は続けられていますが、それは今まで通りのものではありません。しかも、出席したいと思う人の気持ちに応えられずにもいるのです。礼拝は不要不急のものではなく、私たちの命に関わる絶対必要なものだと言いながら、その扱いは不要不急のものとならざるを得ない、そういう意味で、牧師と役員で献げられる礼拝は、この世の非情な現実に対してのささやかな抵抗ということにもなるのでしょうか。では、それが、主の平安の内に生きる私たちにとって、勇気をもって生きるということなのでしょうか。もちろん、そうではない、そうではないというなら、どういうことなのか、現実に抗うことができず、事実、その中で安心安全とはほど遠い暮らしを強いられているのが、今の私たちであるのは間違いありません。このことはつまり、これまで通り、普段通りに、と仰るイエス様のお言葉の意味を見失いかけているのがこの時の私たちであるということです。
 ですから、主の平安の中で与えられているものは、今の私たちにとっては答えではなく、問いです。なるほどそうかというものではなく、なぜ、どうしてということでしかないのです。ただ、この問いの前に立たされるのは、このコロナ禍に限ったことではありません。大きな災害の時にも同じことを私たちは思いますし、それだけではなく、こうしたい、こうありたいとの思いにブレーキがかけられたときにそう思うものなのです。それゆえ、このどうして、なぜとの問いの前に立たされるのは、大災害やコロナなどの感染症が発生したときに限ってのことではありません。これまでの歴史において、私たちが生きるこの日常の中で、なぜ、どうして、というこの問いの前に繰り返し立たされてきたのが私たちなのです。ただ、だから、大きい小さいは関係ないということを言いたいわけではありません。聖書の御言葉の中のサムエル記上5,6章でペストと推定される記述があるように、ちなみに、その中でネズミについて触れられているのは非常に興味深いことですが、そうしたことが聖書の中できちんと記録されているのは、私たちの信仰が、大きなことも小さなことも同じように経験してきたということです。そして、その中で神を見つめてきたのが私たちでもあったのですが、ただし、それは、ただ漠然と眺めてきたということではありません。主の平安が十字架と復活を経て私たちに与えられたように、なぜ、どうしてとの問いの前に立つことにおいて見つめたものが神様であり、そして、見つめる中で示されたことが主の平安であったのです。

 千年に一度の大津波も、100年に一度のパンデミックも、限られた時間の中に生きる私たち個人にとっては、できれば知りたくないし、経験したくもないものなのかもしれません。そのため、なぜ、どうしてと問わずにはいられないのだと思います。そして、その中で繰り返し見失ってきたのが主の御心であり、主の平安でもありました。しかし、主の平和も、主の御心も、歴史に埋没するかのように忘れ去られることなく、今日まで受け継がれることになったのです。それは、この主の平安というものが観念的で表層的なものではなく、この世界にしっかりと刻まれたものだからです。この世界に消し去られることのないかたちで刻みつけられているからこそ、見失い、なぜ、どうしてとの問いの前に立ちつつも、神様の招きによって、この主の平和の中へと繰り返し繰り返し立ち帰ることの許されたのが私たちであるのです。そして、それは、主の親しさの中へと立ち帰るということであり、ですから、主の平安も、それをもたらした神様の御心も、定まらぬ私たちの心に刻まれたものではなく、私たちの体に刻みつけられたものだと言えるのでしょう。
 そこで、ご覧になった方も多いことと思いますが、先週の新聞にあった養老孟司さんのインタビュー記事について少し触れたいと思います。その中で養老さんは、人間の遺伝子情報の4割がウィルス由来のものであり、そして、その4割のほとんどが何のためにあるのか分からないということを仰っておりました。そして、そのことに私は非常に衝撃を覚えたのですが、それは、私たちの体に刻まれた記憶とキリストの体に記憶されたものとが重なり合っているように思えたからです。そして、そう思ったのは、それが何のために記憶されているか分からないが、でも、それが間違いなく私たちの体を形作っている、私たちの教会、信仰を形づくっている、つまり、繰り返し何度も、なぜ、どうして、との問いの前に立ち続けてきたのが、体をもって生きる私たちであり、私たちの信仰であるということです。しかも、こうして今も私たちが体を持って生きているということはつまり、生き続けるために繰り返し何度も発せられる、この、なぜ、どうして、との問いに対して、その答えを具体的な形で与えられてきたのが私たちであるということです。そして、私たちの信仰においては、それが主の平安の中で与えられる主の慰めと励ましであり、そして、この慰めと励ましをイエス様は私たち以外の人間に与えられるために、主の平安の中に生きる私たちを用いようとされているのです。なぜなら、聖書も、そして、その信仰もその担い手たる私たち人の手を通し、この世界に刻まれることになったからです。

 では、その担い手によって、いかにして神様の御心がこの世界に刻みつけられることになったのか、それは、一言で言うなら愛ということであり、そして、この愛の中身についていうなら、それは、寛容と誠実だと思います。なぜなら、刺々しさが満ちあふれる世界の中にあって、なお、赦しをもって生き、また、諦めと絶望が支配する人々の中にあって、なお、自らに与えられた役割を担い、普段通りの暮らしに徹したのがその担い手たちであるからです。しかし、この愛も寛容も誠実も、この非常事態の中では、これらを根底から支える信仰が不要不急と言われているように、もしかしたら、今、不要不急と言われかねないものなのかもしれません。それは、愛も寛容も誠実も、時間を要する上に、すぐに結果の伴うものではないからです。けれども、養老孟司さんの仰ることを踏まえるなら、この不要不急と言われるものによって形作られてきたものが、私たちの生きるこの世界であり、私たち自身であるのは間違いありません。それゆえ、私たちの信仰も不要不急と人からそう思われているものによって形作られたのは間違いありません。
 今、コロナ後のことについて、囁かれ始めてもおりますが、コロナ後の世界が何によって築かれていくのか、そして、そのために、私たちは何を思い、何を考え、何をなせばいいのか、よく考えなければならないように思います。ただ、そこで私たちは忘れてはならないように思うのです。コロナ後の世界がどのような形になっていくのかは分かりませんが、私たちの体に刻まれた記憶が物語るように、それが、不要不急と見なされがちな寛容さと誠実さの上に形作られていくものであり、そして、自分自身がその担い手として今この時を生きているということ、このことだけは、今、しっかりと心に、そして、体に刻みつけたいと思うのです。祈りましょう。

祈り
アッバ、父よと、親しみを持って呼びかけることをお許しくださる、
貴き主イエス・キリストの父なる神様
私たちは、心騒ぎ、その足下が揺らぐとき、人をどうしても赦せなくなることがあります。そして、人を赦すことのできない自分自身に傷つき、あなたから離れたい、離れねばと思い、ますます自分を卑しめることすら行ってしまう、弱く、愚かなものであります。しかし、その私たちをあなたは御心の中に招き、赦しを与え、あなたと共にある平安を約束してくださっています。そして、御言葉を通し、イエス様というあなたの独り子の十字架の贖いゆえに、あなたの赦しと平安が、この世界に、そして、私たちにこの体に刻みつけられていることを知り、感謝します。あなたが導かれたこれまでの世界が、このあなたの御心によって築かれてきたように、コロナ後の世界をもあなたご自身が導いてください。そして、そのために私たちを用いてください。イエス様の寛容さと誠実さにならい、変わりゆく世界の中にあって、変わらぬあなたの御心を私たちに現させてください。イエス様の御名によって祈ります。
アーメン。



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