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復活節第7主日礼拝 説教 「ほとばしり、流れ落ちる命の水」
日本基督教団藤沢教会 2020年5月24日
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【旧約聖書】列王記下 2章1~15節 |
1主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た。2エリヤはエリシャに、「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はベテルに下って行った。3ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのもとに出て来て、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。4エリヤは、「エリシャよ、主はわたしをエリコへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はエリコに来た。5エリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。6エリヤはエリシャに、「主はわたしをヨルダンへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、彼らは二人で出かけて行った。7預言者の仲間五十人もついて行った。彼らは、ヨルダンのほとりに立ち止まったエリヤとエリシャを前にして、遠く離れて立ち止まった。8エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。9渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。10エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」11彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。12エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。13エリヤの着ていた外套が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、14落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた。
15エリコの預言者の仲間たちは目の前で彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言い、彼を迎えに行って、その前で地にひれ伏した。
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【新約聖書】ヨハネによる福音書 7章32~39節 |
32ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。33そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。34あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」35すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。36『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
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ほとばしり、流れ落ちる命の水 |
約2ヶ月間続いた「緊急事態宣言」も、いよいよ終わりが見えてきたように思います。ただ、それで巣ごもり生活が終わりを迎えたわけではありません。ワクチンなどの抜本的解決策が確立していない以上、巣ごもりはいつ終わるとも知れないものだからです。しかし、何はともあれ、胸がきゅっと締め付けられるようなあの緊張感からは少し解放されるのは間違いなく、ですから、解除自体は喜ぶべきことだと思います。ただし、そうであっても、それは、以前のように気兼ねなく自由に動き回れるということではありません。三密を避け、うがい、手洗い、マスクの着用を励行し、そして、このことに加えて、「新しい生活様式」と言われることの実践が求められてもいるからです。それゆえ、私たち教会に集う者もその例外ではありません。その徹底こそが私たちの命を守り、また、神様に造られた全ての命を守ることになるからです。ですから、そうした暮らしが生き甲斐になるくらいまで徹底できれば、巣ごもり生活もさほど苦にもならないのでしょうが、しかし、それも机上の空論でしかないように思います。こうしなさい、ああしなさい、こうしてはなりません、あれもしてもなりません、そう言われ続けることに生き甲斐を見出すことができる人は果たしてどれだけいるというのでしょうか。少なくとも、私には無理なように思いますが、皆さんはいかがでしょうか。
しかし、自分一人だけのこととして済まされるなら、仕方ないの一言で済まされもするのでしょうが、けれども、この度のコロナ禍はそういうわけには参りません。知らず知らず人にうつすことがあり、それゆえ、常に自分自身を振り返ることが求められるからです。しかし、どんなに完璧にやったとしても、これで十分というところが誰にも分からないところにこのコロナ禍の難しさがあり、まただから、巣ごもりということにもなるのです。ただ、巣ごもりとて安心安全なわけではありません。仕事をしなければ生活そのものが成り立ちませんし、生活を維持するには、生活必需品を手に入れなければなりません。このように巣ごもりし、家から一歩も外に出ない生活というのは、そもそものところでいつまでもずっと続けられるものではありません。けれども、そうした暮らしがまったく不可能かというとそうではありません。社会との接触を断ち、自給自足の生活をしている人たちが現にいるからです。では、それが何か、それは修道院です。もちろん、かつてのように外部とまったく接触せずに、というわけにはゆきませんが、でも、少なくとも、このコロナ禍が収まる位までは続けられるのではないか、そう考えると、新しい生活様式など導入せずとも、社会が修道院化すれば、今しばらくは続くであろうこの巣ごもり生活にも、ある程度の生き甲斐を見出すことができるのではないかと思うのです。特に、私たちキリスト者にとっては、なおのことそう思えるのではないでしょうか。
そこで、この修道院生活でありますが、それはすなわち、御言葉に聞き、讃美と祈りを中心とした生活です。ですから、私たちが普段からしていることのそのままを更に徹底するということです。ただし、この生活は、個々人が自由気ままに暮らせるということではありません。日課として行うべき様々な決まり事があり、従って、不自由な生活を強いられるということです。しかも、それは強制されてのことではありません。自らの意思によるものです。それゆえ、ただ黙々と決まり事に従って暮らさなければならず、もちろん、おしゃべりをしたりして気を紛らわすことも原則として許されることではありません。すべてが神を中心とした讃美と祈りの暮らしであり、まただから、罪より解かれ、身も心も平安に満たされ、安全安心を満喫することにもなるのでしょう。ですから、そう考えると、私たちキリスト教の歴史の中には、この度のような出来事の際の、その答えがすでに用意されているということです。世俗を離れ、純粋なる生活に埋没する、しかも、そこに自分自身の居場所が与えられ、そこに生き甲斐を見出すことが許されている、だから、心に安らぎを覚えつつ、この変わらぬ日常をどこまでも歩み続けることができる、そういうことす。ですから、この度のコロナ禍にあって、命を守るための即効的解決策を求める人には、修道院に入ることが一番手っ取り早い解決方法であるのは間違いありません。ただ、カトリックの人たちがこんなことを聞いたら、きっと戯れ言だと、怒るに違いありませんが、けれども、失礼を承知で敢えて申せば、門外漢からすると、修道院は、もしかしたら、今、最もお勧めな場所なのかもしれません。
しかし、私たちの多くにとっては、いくらそうしたいと思っても、それはできることではありません。自分だけ一人でそうした閉ざされた場所に身を隠すことは決して許されることではないからです。なぜなら、私たちには、家庭があり、家族があり、職場、学校、地域があり、そして、私には教会があり、こうした様々な関わりの中で、それぞれがそれぞれの役割を担い生きているのが私たちであるからです。ですから、みんな一緒にということであればまだしも、自分一人だけが、ということになると、そういうわけには参りません。修道院のような純粋な生活への憧れは持ちつつも、そこに足を踏み入れることは、私たちの多くにとっては現実的な選択肢とはなり得ないのです。では、いつ終わるとも知れぬこの状況の中で、私たちは、何に生き甲斐を感じ、何に喜びを見出せばいいのでしょうか。基本的なことを言えば、それは、修道院の内側も外側も、私たちに求められていることは同じです。御言葉と讃美と祈りこそが私たちの生活のすべてであって、それが私たちの信仰であり、それが私たち信仰者でもあるからです。ですから、自粛生活も、巣ごもりも、信仰者としての私たちの生活においては、その基本的な部分は、これまでと何一つ変わってはいないということです。
従って、塀の内側にいようが外側にいようが、信仰と言うことだけでこの現実を捉えるなら、それで私たちは十分に満足することができるはずなのです。けれども、私たちの多くは、よほどの達人でもない限り、それで満足することができない、それはどうしてなのでしょうか。そこで、この問題を解決しないと、私たちは先に進めないことになりますが、それゆえにまた、是が非でも、私たちは、この求めるもの、つまり、どうすれば今を納得し、満足な暮らしをすることができるのかということですが、この答えを手にするしか解決策はないということにもなるのでしょう。しかし、そこでもし私たちが満足しうる解決策が与えられたとして、それが本当に神様が私たちに与えたいと願うものなのでしょうか。
仮庵の祭は、イスラエルの人々にとっての大切なお祭りの一つです。そして、このお祭りが最も盛り上がりを見せるその最終日に、イエス様は立ち上がり、大声を上げて、「渇いている人はだれでも、私のところに来て飲みなさい」と叫んだと御言葉は語るのです。そこで、この光景を想像してみてください。私たちにとっての大事な祝祭日は、クリスマス、イースター、ペンテコステでありますが、この仮庵祭は、イスラエルの人々にとっても、一年を左右するくらいの大切なお祭りでありました。それは、出エジプトの際の荒れ野での経験、つまり、神と共に苦しい中を歩んだ、恵みに満ちたイスラエルの原体験を思い出させるものであり、また、収穫感謝祭でもあるこのお祭りは、一年の暮らし向きすべてを左右するくらいに大きな意味を持つものでもありました。つまり、信仰生活と日常生活とをつなぎ合わせる上で、とても大きな意味を持っていたのがこの仮庵祭であったということです。それは、このお祭りを祝えばこそ、その信仰は、地に足付いたものとなったからです。ですから、それほどまでに人々が大切にしている祭りが最高潮を迎えたわけですから、人々は言葉にならないくらいの高揚感に包まれていたに違いありません。
このお祭りのクライマックスは、大勢の人々が列をなし、シロアムの泉から汲んだ水を祭壇に運ぶことでした。ある学者は、このことからこのお祭りを「光と水の祝祭空間」と言っておりましたが、先祖に与えられた神様からの恵みを自分たちも同じように受けているという、いわば、この根源的な宗教体験の分かち合いは、まさに、光と水の祝祭空間と呼ぶにふさわしい、実に見応えのあるものでもあったのでしょう。ただし、それは、ベネティアのカーニバルのようなものではありません。水の上に浮かぶゴンドラから放たれる様々な光が祭りを彩るように、世俗的色彩の強いものではなく、極めて宗教的なものであるからです。従って、そういう意味で、私たちが行う特別な礼拝との違いはほとんどないと言っていいのでしょう。ところが、そのクライマックスを迎えようとしたその時、イエス様は、大声で「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい」と叫んだというのです。
そこで、イエス様のこの行動をよく考えてみてください。その突拍子のなさに加えて、祭りそのものに水を差すこの行為を、私たちがもし同じようなことを人からされたとしたら、その時、私たちはどんな気持ちになるのでしょうか。間違いなく言えることは、笑ってすますことのできる者はこの中には一人もいないということです。また、それだけではありません。私たちの多くは、そういう心ない仕打ちに深く傷つくことにもなるのでしょう。けれども、にもかかわらず、イエス様はそれを敢えて行った。それは、もちろん、水を差す意図も人を傷つけるつもりもありませんでした。ただただそうせずにはいられなかった、それは、イエス様のこの言葉の中にこそ、私たちがこうして御言葉に聞く理由があるからです。特に、コロナ禍に生きる私たちにとってはなおのことです。それは、このイエス様のお言葉の中に、移ろいゆくこの世の現実の中で、なお、変わらずに歩み続けることの許された、私たちの命の現実が現されているからです。
エリヤの召される日が近いことを知ったエリシャが、「私は離れません、私は離れません」と三度繰り返し同じことを口にしているように、手にした幸いを易々と手放せる者はおりません。まただから、人は変わることを恐れ、変わらずにいつまでも幸いが続くことを神に願い求めもするのです。しかし、それが叶わぬと知ったとき、私たちは、その埋め合わせを求めたりもするのです。それが、エリシャがエリヤに向かって語った「あなたの霊の二つ分を私に受け継がせてください」という言葉でありました。ただし、それは、誰の目から見ても明らかなようにやはり行き過ぎた要求でありました。「あなたの霊の二つ分」というのは、長子の権利二人分ということだからです。だから、エリヤも「あなたは難しい願いをする」と言ったのです。けれども、その願いは叶えられたのです。ですから、私たちが何を思い、何を願うかということにいささかの迷いも感じる必要はありません。イエス様が「何でも願いなさい」と仰るように、思いの丈を神様に打ち明け、願い出ればいいのです。それが許されているのが私たちであり、まただから、そこで、私たちは十分な満足を得ることができるのです。そして、それは、私たちの命が神様の御心の内側に置かれているからです。ただし、そこで、一つお断りしますと、このエリシャの願いを聞き入れたのはエリヤではありません。それを聞き入れるのはあくまで神様であって、それ以外の何ものでもありません。そして、そのことは、私たちにもよく分かっていることです。けれども、分かっているから、またエリシャのようにはなれない、それは、神様に失礼があってはならないと思っているからなのですが、ところが、そのように思う私たちが、神様に不満を訴えるのはどうしてなのでしょうか。これは明らかな矛盾でありますが、それは、神様が私たちのことを本当のところでは分かってはくださらないと、そう思っているからなのではないでしょうか。
私たちは、これまで自分が欲しいと思うものが手に入らず、どれだけ神様に不満を訴えてきたことでしょう。変わることを恐れ、失うことに怯え、信仰の名の下に神様の御前でどれだけいい子のふりをしてきたのでしょう。ただ、このコロナ禍にあっては、そのように自分を誤魔化す余裕はありません。そのため、不満ばかりを募らせるのでしょうが、その自分の姿すら受け入れられないのが、コロナ禍の自粛生活、巣ごもり生活でもあるのでしょう。精一杯というのはそういうものでもあるからです。そのため、自分自身を卑しめ、さらに深く傷つけることにもなるのです。でも、前はそのように自分自身を傷つけることはありませんでした。まただから、昔を懐かしむことになるのですが、けれども、そこでいくら昔を懐かしもうとも、もう昔が戻ることはありません。そこで、新しい明日へと一歩を踏み出さなければならないのですが、その一歩が偉大なる一歩に繋がるとは思えないのです。ここにコロナ禍の中を生きる私たちの不安の一端を見ることができ、また、だから、それを埋め合わせるように自分の満足を追い求めてしまうわけです。つまり、自分のことしか考えられず、利己的になり、気持ちをどんどん萎縮させ、人を一歩も自分の中に寄せ付けようとしないのはそのためです。だから、ある心理学者は、不安とはそれほどに大きなものであり、だから、侮れないとも言っておりました。しかし、そのような私たちであるからこそ、イエス様は私たちの目を将来に向けさせようとするのです。それは、将来にこそ、私たちの求める答えがあるからです。ですから、その気づきを与えるものがこのイエス様の叫び声であり、言葉であるということです。
38節でイエス様が仰っている「信じる者」とは、私、つまり、イエス様の中へと信じ入る者ということです。ところが、イエス様の中へと一歩を踏み出しながらも、その私たちでさえ渇きを覚えてしまう、それがこのコロナ禍の中を生きる私たちの偽らざる姿なのです。ましてや、私たちがそうであるわけですから、世の人々はなおのことだと思います。ですから、自分を外からではなく、内からしか眺められない人々が世に溢れかえっていることを考えてみてください。自分の都合、自分の満足、自分の理解、利己的な思考で溢れかえっている世の中は、社会が萎縮しつつも、いや、社会が萎縮するからこそ、人は、自分というものの境界線をはみ出して、外に向かってこの境界線を広げなければならないと、そのように無意識の中に考えるようになるのだと思います。ですから、緊急事態宣言解除後には、対立、分断に拍車がかかることでしょう。こうしてこれまで隠されていた人間の負の側面が露わになり、ますます社会は混迷を深めることにもなるのでしょう。貧すれば鈍するとは言いたくありませんが、敗戦直後がそうであったように、そういうことが社会のあっちでもこっちでも、まかり通ることにもなるのでしょう。けれども、そうであるからこそ、イエス様は「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と仰り、そして、時を経て過去を振り返るとき、私たちはまただから、私たちの過去が人間の負の側面一色でなかったことを知るのです。
イエス様が仰る「流れ出る」と記されていることは、今はまだ、ということです。それは将来において約束されていることであり、その将来とはつまり、最後のところで、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである」とあるように、聖霊が世に降るときということです。それゆえ、その約束された将来はすでに訪れ、私たち信じる者一人ひとりをその聖霊が包んでいるということです。だから、御言葉にあるように、その人、つまり、イエス様を通し、イエス様へと一歩を踏み出した私たちを通して、コロナ禍にあって渇いたこの世界は、生きた聖なる水が川となって流れ出て、世を潤すことになるのです。ただ、もしかしたら、それでも私たちはイエス様のこの言葉に直ぐには肯けない者なのかもしれません。一歩を踏み出すということは、それができない者にとっては、人から言われ、はいそうですかというわけにはいかないからです。ただ、だからこそ、神様とイエス様は私たちを一人にはしないために聖霊を送るのです。
聖霊が生き生きと働く世界とは、どんな世界なのでしょう。祭りの賑わいの中、人々が気持ちを高ぶらせ、束の間の一体感を味わい知る世界でしょうか。それとも、純粋でひたむきな、美しいもの、ただ自分が欲しいと思うものだけに囲まれた世界でしょうか。ただ、イエス様が「聖書に書いてあるとおり」とある世界は、そういう望ましい、分かりやすい世界ではなく、「聖書に書いてある」とあるように、そこには対立があり、分断があり、裏切りがあり、憎しみがあり、そういう私たち誰もが望まぬものに満ちあふれた世界でもあるのです。けれども、そこに「生きた水が川となって流れ出る」とイエス様は仰り、事実、これまでの歴史を通して生きた聖なる水が川となって流れ出た世界が、私たちの生きるこの世界なのです。それは、この流れ出る水が、人と人とを遮る形で働くものではないからです。カラカラに渇いた土地を潤すべく流れ出るものであり、その水がイエス様と私たちの中から流れ出ると、イエス様は断言されるのです。
この度の出来事は、単純に試練などと言えるほど生やさしいものではないと思います。小康状態を一端は迎えながらも、いつ状況が急変するかも分からないものだとも思います。そのため、世界はその形を大きく変えていくことにもなるのでしょう。けれども、世界が危機的状況にあればあるほど、この世界とそこに生きる私たちを包むべく、活発に働きかけるものが聖霊なのです。それは、世界が十字架以前の状態に戻ることができないように、復活の主が共にいます以上、聖霊の豊かさに与ることが許されているのがこの世界であり、私たちであるからです。ただ、いくら大きなことを言っても、私たちは小さく、できることには限りがあります。そのためにまた、深く傷つくこともあるのでしょう。けれども、私たちが振り返り知らされることは、その私たちに聖霊が豊かに注がれ、分断あるところに一致を、対立と憎しみのあるところに平安を、聖霊に満たされた私たちをしてもたらされるということです。それは、聖霊が私たちをしてイエス様がその一歩を置かれた場所にその足を運ぶからです。ですから、イエス様が置かれたその一歩一歩に恐る恐るでもいいし、もたもたしてもいい、聖霊が私たちの背中を押すその場所に一歩を踏み出す私たちでありたいと思います。祈りましょう。
祈り
愛する天の父なる神様
将来に対する不安でいっぱいな私たちを、この朝もあなたは御前へとお集めくださいました。自らの頑な思いの中に止まるのではなく、聖霊の働きによりあなたの御前に集まり、その御心に触れることが許され、心より感謝します。どうか、不安に押しつぶされそうになる私たちの背中を押して、あなたの御後を辿らせてください。そのためにも、聖霊を豊かに注ぎ、あなたご自身に喜ばれる歩みを歩ませてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
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