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ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝 説教 「主の平和」

日本基督教団藤沢教会 2020年5月31日

【旧約聖書】エゼキエル書 37章1~14節
 1主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。3そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」4そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
 7わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。8わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。9主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」10わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。
 11主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。12それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 7章32~39節
 15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
 25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。


主の平和
 ペンテコステおめでとうございます。イースター直後から一ヶ月余り、コロナ禍に伴う「緊急事態宣言」発出ゆえに礼拝を非公開とし、牧師、役員、事務主事だけで主日礼拝を行って参りましたが、こうして皆様と共にペンテコステを祝うことができ、この恵みと幸いを主に心より感謝したいと思います。しかし、礼拝は再開されたとしても、すべての人たちがこれまでと同じように変わりなく礼拝に出席されているわけではありません。ですから、嬉しくもあり、嬉しくもなし、というのが今年のペンテコステということでもあるのでしょう。ただ、この嬉しくもあり、嬉しくもなし、ということは、私の個人的問題ではすまされないことのように思います。聖霊が弟子たちの上に注がれ、主の教会が立てられたこの日に、私たちの教会の中に目に見える形ではっきりと線が引かれているように思えるからです。そのため、複雑な思いを抱いた方もいることでしょう。そうなると、それを境に、教会があっち側とこっち側に別れることになり、この祝いの日が互いに負い目を負う日ということになってしまいます。ですから、嬉しくもあり、嬉しくもなし、といった具合に二つに分かれた中でのペンテコステは、やはり本来の姿ではないのでしょう。しかし、だからこそそこでまた考えたいのです。ペンテコステを祝う上で、上手くいかない理由のすべてをこの度の出来事のせいにしてしまっていいのだろうかと。

 ペンテコステは、イースターから数えて50日目に、弟子たちの上に聖霊が臨み、教会が立てられた出来事を思い起こし、共に祝うものです。ですから、聖霊の働きによって一つの教会が立てられた以上、二つに分かれるのはよろしくない、というのは分からぬことではありません。しかし、使徒言行録を見てみますと、聖霊降臨の出来事のその直前では、社会生活を営む弟子たちの間に混乱がなかったわけではありません。祝福と呪いの狭間に置かれたその動揺を垣間見ることができるからです。それゆえ、聖霊が臨むことがなければ、弟子たちは散り散りとなり、教会が今日を迎えることもなかったのでしょう。しかし、そうはならなかった、ここに私たちがペンテコステを祝うべき理由があり、つまり、「私たちの気持ちが」というところからではなく、「神様が」と言うところから先ず聞いていく必要があるということです。そして、その神様がこの日私たちに与えてくださっているものが今日のそれぞれの御言葉でもありますが、ですから、この「神様が」というところに立って、御言葉から聞いていくなら、こっちでもなく、あっちでもない、このペンテコステに立てられた主の教会という交わりとはこういうものなんだよと、この神様の御心を私たちは聞いていくことができるのです。

 そこで、このエゼキエル書37章に触れて、皆さん、何を思ったでしょうか。枯れた骨に主が呼びかけるとたちまち死んだ者が生き返るといったその様は、ある種の不気味なリアルさがあり、ですから、「カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。」と、また、「それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」と語られているところは、さぞや皆さんの好奇心を刺激したことでしょう。しかし、それがこの御言葉が語られている目的ではありません。その直後に、「しかし、その中には霊はなかった」とあるように、人が生きるためには、骨と骨とがつなぎ合わされ、その上に筋と肉がくっついただけでは不十分であり、命の息、神様の霊が吹き込まれることが不可欠だということです。だから、御言葉は、主の言葉として「霊よ、四方から吹き来たれ。」と語るのです。

 ただ、そこで一つ大事なことがあります。それは、その霊が一体誰に対し吹き込まれるものかということです。それについて御言葉は「霊よ、これらの殺された者の上に吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る」と語るのです。そして、この殺された人々とはつまり、バビロン捕囚の悲劇に伴い亡くなった同胞、仲間たちのことで、つまり、過去に置き去りにされた人々のことです。「生き返れ」と語る主の言葉は、このように置き去りにされる人々に語りかけられているものだということです。そして、神様が過去に置き去りにされた人々に新たな命を与えられるのは、御言葉が「彼らは非常に大きな集団となった」と語るように、再び交わりを築くためです。ただし、そこで注意したいことは、神様がこう語りかけることが、すべてが終わった中でのことではないということです。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である」と神様が語り、また、置き去りにされた人々が「我々の骨は枯れた。我々の望みは失せ、我々は滅びる」と語るように、悲劇は現在進行中のことであり、神様の約束は未だ実現したわけではないのです。

 ですから、彼らと同じ立場に立って、この神様の言葉に聞いたとして、そこで私たちは何を思うのでしょう。恐らく、私もそうですし、皆さんもそうでしょう。多くの人々が存亡の危機に際し思うことは、この先のことではなく、今、この瞬間のことです。そして、それは、神様が「私はお前たちの墓を開く」と語るのとはまったく正反対のことです。将来、閉じられた墓が開かれることではなく、今開きかけている墓が閉じられることを願うのです。しかし、神様は、人々の、今、この瞬間の要求には応えられず、墓を開き、墓の中に彼らを葬り、その墓を閉じられたのです。枯れた骨はそのことを物語っています。ですから、累々と重なる屍は、そういう意味で、神様の御心を現していると言えるのでしょう。そして、それは、見過ごしにすることができないほどにイスラエルの人々の罪が際立つことになったからです。ですから、エゼキエルが見たこの幻は、彼が見たものが枯れた骨であったように、それは、実態を失い、化石となった、置き去りにされたイスラエルの姿です。けれども、神様がエゼキエルにこの幻を見せたのは、この置き去りにされた人々の姿の中にこそ、神様の大きな目的が現されているからです。それは、「私が墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、我が民よ、お前たちは私が主であることを知るようになる」とあるように、人々に自らを知らしめることでした。そして、神様が自らを現すということは、神を知った者は一人も置き去りにはされないということです。ですから、ペンテコステの出来事を祝う私たちは、このエゼキエル書の御言葉を通し、神様はそのように交わりを回復される方だと理解させられることになるのです。

 そこで、ペンテコステの出来事の直前の弟子たちの心持ちを想像したいと思います。主イエスの十字架と復活の出来事を経験し、その後しばらくをイエス様と一緒に過ごした弟子たちは、復活から40日後にそのイエス様を天へとお送りしなければならなかったわけです。ですから、直近の記憶覚めやらぬ弟子たちにとって、イエス様の昇天から聖霊降臨の出来事までの10日間は、どんな心持ちだったかと思います。想像するに、それは再び開かれ墓に自らを葬るようなものであったと思います。しかし、それでも彼らは主の復活の証人たるべく振る舞おうとしたのです。弟子集団の中から選ばれた二人にクジを引かせて、一人欠員のままであった使徒職を補おうとしたのですが、このクジという形で御心に問うところに、大事なものを失っても、なお立ち上がろうとする彼らの心意気を感じることができます。ですから、そんな彼らの上に聖霊が臨み、主の教会が地上に立てられたということは、そんな彼らへの神様からのプレゼントだったとも言えるのでしょう。そして、このプレゼントとはつまり、新たな命に与り、彼らが生気を取り戻したということであり、閉じられた墓が再び開かれ、墓から引き上げられたということです。それゆえ、聖霊が降り、教会というその居場所が与えられた彼らは、エゼキエルの預言にあるように、神を知ったのです。それゆえ、教会は、神を知る集団、共同体であるということです。

 では、この神を知る共同体とはどんなものなのか、それについて、イエス様はこう仰います。「私が父の内におり、あなた方が私の内におり、私もあなた方の内にいることがあなたがたは分かる」と。つまり、神様とイエス様の御心の外側ではなく、内側に置かれているのが神を知る者の姿であるということです。ですから、分かる、知る、ということは、心配の種になることはありません。御心の内側にあれば、いつも御心に触れているわけですから、取り立てて問題にする必要もないからです。けれども、外側にあれば、それは違います。いくら知りたい、分かりたいと思っても、触れ合うことがない以上、それはそもそものところでどだい無理話であるからです。ですから、知る、分かる、ということが何を意味するのかと言えば、そもそものところで神様の御心の内側に私たちが生きているかどうかということです。まただから、イエス様もここで「私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む」と仰っているのです。つまり、イエス様が、「誰でもない、私と天のお父様とがあなた方と一緒にいるんだよ」と、そう仰っているわけですから、一緒にいる以上、私たちがイエス様と父なる神様のことを知らないままで終わることはないということです。

 しかし、ただ一緒にいる、一緒だよと言い続けるだけでは、それは戯れ言に過ぎないことになってしまいます。ですから、そこで何らかの働きかけがなければならないのですが、それが聖霊の働きかけです。従って、ペンテコステを迎えた今日、私たちにとって大事なことは、イエス様の次の言葉だと思います。「私は父にお願いしよう。父はまた別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」と、イエス様はこう仰るのですが、つまり、この聖霊の働きを通し、神様の御心の内側に置かれていることを知らされているのが、こうしてイエス様の御言葉に聞いている私たちだということです。そして、それは、このペンテコステの出来事について、使徒言行録が「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」と語っているように、一人ひとりすべての人々の上に臨んだことなのです。従って、そこには一人の漏れもなく、そうである以上、あの人が、この人がと、私たちは心配する必要はありません。ですから、最初に触れた、嬉しくもあり、嬉しくもなし、ということについて、私たちは何も心配する必要はないのです。ただし、私たちが心配しないためには、次のことを心に留める必要があるように思うのです。

 教会のイメージは、十人いれば十人違い、ピタッと一致することはありません。けれども、それがピタッと重ならなければならないと、そう思っている人は案外多いように思います。そのため、私もそうですが、みんなが同じでない、というところに安心できないのです。嬉しくもあり、嬉しくもなし、と思ったりするのはそのためです。つまり、嬉しいのは、信仰も教会も、生きる上で役立つものだと思えるからであり、また、その反対の気持ちになるのは、信仰も教会も役立たずの無駄なものだと思えるからです。そして、それは、その瞬間、その人の手の中にあるものを通してすべてのことを分かろうとするからです。しかし、この役に立つか立たない、無駄か無駄でないかは、私たちが霞を食って生きてはいない以上、それを頭ごなしに否定することはできません。そして、そもそものところで、神様を知り、イエス様を知るということは、私たちにとってはやはり役に立つことであるし、無駄ではないと心からそう思うからです。ただ、御心の内側に生きる私たちがそう思うのは、今、この瞬間の私たちの要求に神様とイエス様が応えてくださるからではありません。バビロンからの解放が何十年も後のことであり、また、メシアの到来を500年以上を待たなければならなかったように、御心が実現するには、私たちの想像を超えた時間を要することがあるからです。

 しかし、それでは、置き去りにされる人が常に必ず出てくることになります。けれども、そこでひとりも置き去りにしないのが神様の御心でもあるわけです。では、それについて私たちはどのように考えればいいのでしょうか。私たちの中を見ても教会のイメージは一つではなく、ましてやそこにまた、分断や対立の種があり、そして、それに伴う不信感や敵意や憎悪があり、直ちに乗り越えることのできないこの世的な数々の様々な障害もあるのです。しかし、そうであるからこそ、御言葉は主の教会は一つであると語るのです。ですから、ここに矛盾があるように思うのですが、それは確かに矛盾です。けれども、やはり教会は一つなのです。しかし、この矛盾ゆえにまた、そこに置き去りにされる人々が出てくる理由があるように思うのですが、しかし、まただからこそ、神様は、このペンテコステの出来事を通して、置き去りにされたと思い込む私たちの気持ちをときほどこうとされたのです。

 強い者がいて、弱い者がいる、この状況を力業で変えることの難しさを私たちはよく知っています。しかし、私たちの力ではどうすることものできない者同士を聖霊がつなぎ合わせ、それぞれを御心の内側に置いてくださっていると、ペンテコステの出来事はそのことを私たちに明らかにしたのです。ですから、教会は、鉄(くろがね)の要塞ではありません。矛盾を露わにしつつも、聖霊によってこの矛盾がつなぎ合わされている、私たち一人ひとりのネットワークのようなものであるからです。そして、その中心にイエス様がいる。ですから、弱い者と強い者との隔たりは教会にとっての弱みでもあるのですが、教会には、この弱みを強みに変える力があるのです。そして、それは、パウロが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と語るように、イエス様とのつながりの中で神様を深く知る私たちのなすことは、神様とイエス様が共に喜んでくださることだからです。

 今、人と集まることに制限があり、その移動すらままならない状況の中で、集まることによって支えられたその強みが突然弱みに変わってしまったように思います。しかし、ペンテコステの出来事は、それがそうではない、と私たちに明らかにするのです。それは、聖霊の働きを通し築き上げられてきたネットワークが断ち切られることはないからです。ただし、そこで求めるその答えがすぐに見つかることは少ないことなのかもしれません。それは、聖霊の働きを通し築き上げられるものが私たちの求める答えであり、今はそのプロセス、過程にあるからです。けれども、まただから、今のこの弱みは必ず強みへと変えられます。なぜなら、そうして生きてきたのが私たちだからです。だから、主イエスはこう仰るのです。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、怯えるな」と。強がるのでもなく、また、騒ぎ立てるのでもなく、御心の内側に生かされていることを信じ、聖霊の働きに委ね、主の教会というこの交わりの中で、これまでと変わらぬ毎日を過ごして参りましょう。祈ります。

祈り
教会の頭であり、教会を地上に建てたもう、貴き主イエス・キリストの父なる御神様
 集まることも、友を訪ねることもできなかった私たちを、この特別な祝いの日にあなたの御前へと私たちを集め、兄弟姉妹と共にあなたを礼拝できます幸いに与らせてくださったことを感謝します。ただ、すべての者がこの場に集められたわけではなく、そのことにまた、私たちは心に重荷を負うものでもあります。しかし、私たちは、今のこの弱さをあなたと共に見つめることが許されています。それゆえ、この弱さは、私たちの交わりをよりしなやかで、より強いものへと変えてくださることを私たちは信じます。私たち藤沢教会に連なるすべての者が、あなたを頭とする交わりの内に生かされていることを知っているからです。
 どうか、今しばらく続くであろうこのコロナ禍にあって、置き去りにされる者が一人も出ることなく、その終息の時を迎えることができますよう、聖霊の働きをもって私たちを導いてください。そして、このあなたの御業を通し、主イエスがこの地にこの場所に形をもって現されますよう、そのために私たちを用い、今のこの弱みを強みへと変えてくださいますようお願いします。貴き主の御名によって祈ります。アーメン。



二部制ですが、礼拝が再開されました

久しぶりに看板が掲げられました

曇 23℃ at 10:00