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三位一体主日礼拝 説教 「主の御名による願い」

日本基督教団藤沢教会 2020年6月7日

【旧約聖書】イザヤ書 40章12~17節
12手のひらにすくって海を量り
 手の幅をもって天を測る者があろうか。
 地の塵を升で量り尽くし
 山々を秤にかけ
 丘を天秤にかける者があろうか。
13主の霊を測りうる者があろうか。
 主の企てを知らされる者があろうか。
14主に助言し、理解させ、裁きの道を教え
 知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。

15見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく
 天秤の上の塵と見なされる。
 島々は埃ほどの重さも持ちえない。
16レバノンの森も薪に足りず
 その獣もいけにえに値しない。
17主の御前に、国々はすべて無に等しく
 むなしくうつろなものと見なされる。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 7章32~39節
8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。


主の御名による願い
 教会暦では、ペンテコステの次の主日を三位一体主日と定めておりますが、それには一つの目的があるように思います。それは、ペンテコステの祝い時を共にした私たちが、アドヴェントまでの半年間、父と子と聖霊との交わりの中に置かれていることを意識しつつ歩むということです。そして、この半年間を「教会の時」と呼んだりもするのですが、そのような歩みをなせばこそ、教会も私たちの信仰も、共に主の恵みによって彩られ、具体的な姿を伴って形作られることになるのです。それゆえ、父と子と聖霊との交わりの中に置かれた私たちにとって、教会の時を過ごすということは、移り変わる景色を体で感じるようなものでもあるのでしょう。

 そこで、今から夏にかけて、夏から秋、秋からアドヴェントにかけて与えられる様々な行事を思い起してみてください。そこにはCSのキャンプがあり、修養会があり、バザーがあります。そして、高齢祝福合同礼拝があり、永眠者記念礼拝があり、幼児祝福式があります。近年、その準備の労の大きさばかりが目立ってきているようにも思いますが、教会の時というのは、行事に追われ、振り回されるためのものではありません。それ自体は私たちにとって恵みなのです。労を分かち合い、分かち合う中で互いを知り、そして、互いを知り、理解し合えばこそ、私たちは主にあって成長することになるからです。ですから、そういう意味で、「私たちらしさ」というものがあるとすれば、それは、この父と子と聖霊との交わりの中で養われるものであり、つまり、私たちの信仰も私たち自身も、つまり、この「私たちらしさ」と呼ばれるものは、私たちの信仰生活を彩る様々な出来事、季節の移ろいと共に訪れる様々な出来事など、そういった様々な変化があればこそ、厚みあるものとされていくということです。

 従って、「私たちらしさ」、「自分らしさ」、さらに言えば、「人間らしさ」というものは、父と子と聖霊との交わりに生きる私たちにとっては漠然としたものとはなりません。その中で与えられる様々な出来事と、この父と子と聖霊との交わりの中に置かれた自分自身への気づきを通して、より鮮明なものとされていくからです。そして、そこで大切なことは、ここでイエス様が「私は父にお願いしよう。父はまた別の弁護者を使わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる」と仰るように、弁護者、すなわち、聖霊の働きです。ただし、この聖霊でありますが、怪しげな霊能者が語るようなものではありません。「真理の霊」とイエス様が仰るように、真理とはつまり、完全であり、完璧であるということです。そして、その内容は、一端口にした約束を必ず守られるということです。つまり、子どもがよく「絶対、すごい、本当だよ」と口にすることがありますが、そういう意味での嘘偽りのない完全で完璧なものであるということです。なぜなら、事実、私たちの命は、この父と子と聖霊との交わりの中で養われ、その命を次の世代へと受け継いで行くことが許されているからです。このように私たちがこうして生きている交わりが、私たちのこの命を守り支えると約束してくれているからこそ、私たちは、自らのこの信仰を真実なものだと口にすることができるのです。

 ですから、この父と子と聖霊との交わりは、そういう意味で、完全無欠、完璧な交わりだとも言えるのでしょう。まただから、イエス様は、「私の名によって何かを願うならば、私がかなえてあげよう」と仰るわけですし、まただから、「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る」と仰るのです。ただ、この願いと掟については、誤解しないようにお願いします。それは、「いい子にしていたら、いい子だから、きっと必ず願いはかなえられますよ」ということをイエス様が仰っているわけではないからです。そこで、イエス様が仰ったこの順序が大切になってくるのですが、イエス様は、先ず「願いがかなえられる」と語り、その次に「掟を守る」と語るのです。それも、だから守りなさいと仰るのではなく、そうすることが自然なことのように「守る」と仰るのです。このことはつまり、守るということは、私たちにとっては、人からとやかく言われるようなものではなく、自然なことだということです。だから、それが私たちらしさそのものを現すことになるのですが、それは、私たちが父と子と聖霊との交わりの中に現にこうして生きているということです。ですから、掟というのは、私たちのことを無理矢理いい子にさせようとするものではなく、もっと自由でのびのびとしたものであり、だから、それを守ることが私たちらしさとなって自然と現れ出ることになるのです。

 そこで、昨年、急逝された東神大の学長であった大住雄一先生が授業の中で繰り返し仰っていたことがふと思い出されるのですが、それは測り縄という言葉です。今申し上げていることとの関連で申し上げれば、交わりの外と内とを分ける紐のようなものを思い浮かべていただきたいのですが、つまり、あっちとこっちとを分ける境界線のようなものが、聖書に度々出てくるこの測り縄というものなのですが、大住先生は、この測り縄と関連させて、法、戒め、掟についてお話しくださったのです。とてもわかりやすい説明であったため、こうして記憶に残っているのですが、ただ、もちろん、当時、何が仰りたいのかは分かりませんでした。けれども、それが、今、ふと、思い出されたのは、これも聖霊の働きによるものなのでしょう。話を元に戻しますと、ですから、この掟を守るということは、私たちがこっち側にいることを喜んでいるか、つまり、神様との交わりの中にあることを喜びながら過ごしているかということであり、同時に、守れないということはつまり、交わりそのものに喜ぶことができずにいるということです。だから、この向こう側にはきっともっと良いものがあるに違いないと、そう思ってしまうということです。

 ですから、そう考えると、フィリポの「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」という言葉を受けて、イエス様が「フィリポよ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか」と仰っていることはよく分かります。すでに主イエスとも神様とも共にいながらも、フィリポにとっては、共にいることが心から安心できることでもなく、それゆえ、そこが安全な場所でもなかったということだからです。だから、もっともっと、私を満足させてください、納得させてくださいと、主イエスが去って行くことを知らされたこの時だからこそ、思わず、その必死さ、真剣さが口から飛び出すことにもなったのです。こうして、イエス様と時間を共にする中で、思わず馬脚を現してしまったフィリポでありましたが、ですから、この必死さは滑稽だとも言えるのでしょう。イエス様が「私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』というのか」と仰るように、見ているのに見ていないと言い張ることは、見てないのに見たと言い張ることと同じくらいにとてもおかしなことでもあるからです。

 ですから、この時のフィリポの言動を考えますと、フィリポは、思いがけず超えてはならない一線を越えてしまったかの感がありますが、皆さんの目から見て、この時のフィリポはどのように見えるのでしょうか。一線を越えるということで、フィリポのことでなくても、他のことでもいいと思います。ホットな話題でいえば、コロナに感染したかどうかということでもいいと思いますし、またそれ以外のことで言えば、私たちの口に上る噂話の類いでもいいと思います。自分を棚に上げることはしたくないのでしませんが、そういうとき、私たちは、一線を越えた者と自分との間に線を引き、つまり、こっちとあっちとを分けて、安全なこちら側に身を置いて、そこから物事を眺めたりもするものです。こっち側から見て、向こう側の人を笑ったり、見下したり、蔑んだり、憎んだり、哀れんだりするのはそういうことなのではないでしょうか。ですから、向こう側にいる人が、もしこっちに入ってこようものなら、突き飛ばし、ボコボコにする、今話題となっているネットの上での中傷などがまさにそうだと思うのですが、ならば、教会は、そして、私たちはどうでしょうか。そこで、もちろん、はっきりと違うと言いたいし、また、私たちの周りの人たちも、私たちの違うとの声をはっきり聞きたいと思っているのでしょう。しかし、現実はどうか。私たちの中にも似たようなことがたくさんありますし、もちろん、私自身もそうですし、そういうことはたくさんあります。そして、多くの場合、その理由を聖書が語るところの罪の問題に求めたりもするのですが、その判断が間違っているわけではありません。神に背を向けたがゆえの事態であることは間違いのないことだからです。つまり、教会も罪人の集まりだからとの納得は正しいということです。

 しかし、正しいことを正しいというだけでは私たちが救われることはありません。そこで、そのまま放置することはできませんから、何んらかの手立てを講じなければならないのですが、ただ、そこで、「えっ、待ってよ」と、そう思った方もいらっしゃるのではないかと思うのです。なぜなら、先ほど、皆さんに対して、私は、父と子と聖霊によって守られ支えられている教会は完全無欠、完璧な交わりであると申し上げたからです。ですから、もしそうであれば、そもそもおかしなことが教会の中で起こりようはずもなく、ましてや、愛を語る教会の中で、人を蔑んだり、見下したり、中傷したり、陰口をたたいたりと、そういったことがあろうはずもないからです。しかし、現実はどうでしょうか。もちろん、そうではない、そして、そのことを誰よりもよく知っているのは私たち一人ひとりであり、何よりも、自分自身が、その一人、その当事者でもあるのです。ですから、私たちのそうした一面も私たちらしさの一つではあるのでしょうが、ただ、そこに人が何かを期待したり、新たな思いを重ねたりと、つまり、そうなりたい、そうしたいと思うことはないのでしょう。ですから、私たちがそういう自分自身の姿を隠しながら、父と子と聖霊の交わりに生きることの素晴らしさを語っているとしたら、また、それを口にしなければならないとしたら、私たちの信仰も教会もこれほど惨めで空しいものはないということになってしまいます。ただ、今日与えられているイザヤ書を見て行くと、「主の御前に、国々はすべて無に等しく、空しくうつろなものと見なされる」とあることから、そもそものところでそれも、「私たちらしさ」と言われているものでもあるのでしょう。なぜなら、それがあって今があるのは間違いないことだからです。では、そうなると、この私たちらしさとは一体どういうものになるのでしょうか。

 この私たちらしさについて、父と子と聖霊との交わりに生かされていることへの気づきがそれを形作ると申し上げましたが、先ほどから申し上げている、この私たちらしさを形作る上での様々な一面は、トマスもそうですし、フィリポもそうだったのですが、この父と子と聖霊との交わりの中で先ず気がつかされることは、自分はここに本当にいていいのか、いても大丈夫なのかということです。しかし、私たちが気づくべきことはそこではありません。御言葉が語るところは、私たちはここにいていいんだ、ここが自分の居場所なんだということです。そして、それは、イエス様の、このフィリポに対する振る舞いからも分かります。「もういい、お前など知らん、あっちに行っていろ」とフィリポを向こう側に追い出すのではなく、物わかりの悪いフィリポに対し、なお、同じところで同じように関わり続けておられるのがイエス様なのです。このことはつまり、交わりの外ではなく、あくまで内側に置き、しかも、「もしそれを信じないなら」と仰るように、信じないということが絶対にあってはならないことではなく、そういうことが必ずあるということを分かった上で、「業そのものによって信じなさい」と勧めているのがイエス様であるということです。それは、「私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」とイエス様が仰るように、父と子と聖霊との交わりの内側に生きればこそ、イエス様に倣い、そのイエス様に学び、気がつけばイエス様の業、イエス様そのものが身についていることになるからです。ですから、この「もっと大きな業を行う」とイエス様が仰っていることは、そういう父と子と聖霊の交わりの中に置かれた豊かそのものをイエス様ご自身が自らの体験として語っておられるということです。

 今、自粛警察ということが話題となっておりますが、先週、車のボンネットの上に置かれた「県内在住です」というカードを見る機会があり、そこでナンバープレートを見ると、確かに県外のナンバーでした。よほど不安だったからなのでしょうが、ところが、それを逆手にとって、免罪符のように用いる人もいるとのことです。ですから、ずるはずるとして正してあげなければならないのですが、けれども、正すということが、交わりから追い出して良しとするということではないのでしょう。ただ、残念なことに、それでよしとするところが世の中だけでなく、私たちの中にも現にあり、そして、それは、聖書が語ることでもあるのです。まただから、教会も信仰も空しいものと感じることにもなるのでしょう。信じられないし、信じたくない、父と子と聖霊との交わりへの疑いが深まり、そこから逃れようとし、また、その反対に、このゆゆしき事態に対処せねばと思い、自粛警察とまではいかなくとも、似たような振る舞いをしたりもするのです。ですから、今日のイザヤ書にあることは、捕囚の民のそんな慌てふためく姿が透けて見えるようにも思いますが、けれども、この慌てふためく人々と最後まで離れることなく関わると、誰でもない、それを身をもって現されたのがイエス様であったのです。そして、そのイエス様が私の業を行いなさいと仰り、さらに、もっと大きな業を行うと仰っているのです。それは、この父と子と聖霊の交わりには、罪深く、自分の思いばかりを遂げようとする私たちをも変える豊かさがあるからです。それゆえ、この交わりに生きる私たちは、この豊かさにすでに与っていると言えるのです。

 フィリポ然り、トマス然り、ペトロ然り、更にいえば、イスカリオテのユダもまた然り、皆が皆罪人であることに変わりはありません。けれども、ユダは交わりに背を向けただけでなく、そこで許しを請うのではなく、つまり、イエス様に何でも願うのではなく、自分で自分に始末をつけたのです。ですから、ここにユダの一番大きな罪があり、悲しさがあるように思います。けれども、仲間として、このユダのことも弟子たちはきっと祈りの内にイエス様に許しを請うたのかも知れません。いや、仲間、家族であるということは、罪を罪として認めながらも、なお、仲間、家族であるがゆえに、交わりへの復帰を祈らずには、願わずにはいられないものなのだと思います。ただ、すべては私たちの手の内にあるのではなく、交わりを束ねる父なる神様の御手の中にあるのであり、そこに私たちの限界があるのは明らかです。けれども、その私たちが、イエス様の御心の内に置かれてもいるのです。ですから、気がつけば私たちはイエス様そのものを身にまとっていると、それが私たちらしさであるということを、必ず気がつかされることになるのです。祈りましょう。

祈り
私たちをその豊かな交わりの中へと招く、父と子と聖霊なる三位一体の神様
 このコロナ禍の中にあって、自分らしさ、人間らしさを見失いかけている私たちに、あなたは御言葉を通し、この日も語りかけてくださいました。今、私たちらしさを形作ってきた様々なことが制限され、この制約の中で自問自答する日々を過ごす私たちに向かって、私たちが、思うに任せない日々を過ごせばこそ、あなたはその私たちを聖霊の働きによって豊かな交わりの中に留め、なお、あなたの御心の真実を知らしめてくださいました。そのことを覚え心より感謝します。どうか、今私たちが願う様々な願いを聞き届けてくださいますようお願いします。そして、何よりも、思うに任せない日々を過ごすことで、私たちが、私たちらしさを見失うことがないように、日々、イエス様を強く思い、大らかに、そして、しなやかに歩み続けることができますよう、聖霊を豊かに与えてください。貴き主の御名によって祈ります。アーメン。






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