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花の日・こどもの日主日礼拝
  説教 「新たに作り上げられるために」

日本基督教団藤沢教会 2020年6月14日

【旧約聖書】申命記 6章17~25節
17あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、18主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、19主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる。
 20将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、21あなたの子にこう答えなさい。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。22主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、23我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。24主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。25我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」

【新約聖書】ヨハネによる福音書 3章1~15節
 1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。


新たに作り上げられるために
 本来であれば、今日は、花の日・子どもの日合同礼拝として礼拝が献げられる予定でした。そのため、子どもと大人が神様の御前に集まり、一緒に礼拝することを楽しみにされていた方も多いことと思いますが、残念なことに今年はそれが叶いませんでした。ただ、普段、余り接点のない者同士が一緒になり、それが満面の笑みとなって現されたということは、礼拝が本来持っているその良いものを共に分かち合ったということであり、そして、その良さとはつまり、神様とイエス様を近く思うということです。ですから、神様とイエス様を幼子のように慕うこの気持ちの現れこそが、神様とイエス様を信じる信仰であると、私は、信仰とはそもそもそういうものだと思うのです。従って、礼拝において一番大切にすべきことは、神様とイエス様と私たちとが一緒になって触れ合っているというこの感覚でもあるのでしょう。

 また、この良さについてですが、それは、食卓に並ぶ料理に譬えることもできるようにも思います。満面の笑みを浮かべるということはつまり、良かった、美味しかったということです。そして、それを私たちが美味しいと感じるのは、それが私たちにとってのいつもの馴染みのある味だからです。ですから、その味にはそれぞれが主張し合うような刺々しさはありません。温かみのある優しい味、つまり、私たちが毎日食べているお母さんの味、礼拝において私たちが味わうのは、このお母さんの味なんだと思います。そして、そのために神様が思い浮かべることは、私たち一人ひとりの顔です。だから、それぞれの個性が上手に混じり合って、優しい味が引き出されることにもなるのです。ただし、だから何でも混じり合いさえすればそれでいいということではありません。相性が悪いというか、これとこれとは無理だろうというものもありますし、また、火加減を間違えて鍋を焦がしてしまうこともあるからです。

 ですから、ずっといつまでも変わらずに続いて欲しいと願う慣れ親しんだものも、何かを切っ掛けに失われることもあるわけです。それは、この続けるということが、何も考えずに、何も感じずに、ただそのままでいればいい、ただやり続けさえすればいい、そういうものではないからです。そして、それは、今日の御言葉を見ても分かるように、イスラエルの歴史もそうですし、イエス様を訪ねたニコデモを見てもそうなのですが、ですから、私たちの信仰もまた、ただ漫然と続けられるものではありません。その背後には、実にいろいろなものが隠されており、この隠されているものが、この続けるということにおいて、どれだけ邪魔をしてきたことかと思うのです。けれども、それにも関わらず、なくてはならない営みとして、人々の間で続けられ、受け継がれてきたのが信仰でもあるのです。それは、もちろん、先ほど申し上げたように、優しく温かみのある、味わい深いものであったからなのですが、ただ、この味わい深さを知る前に知らされるのが、それを知る上での難しさです。

 モーセがイスラエルの民に「将来、あなたの子が、『我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか』と尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい」と語り、また、ニコデモがイエス様のところにのこのこやって来て、個人的な問題を相談したように、信仰とはつまり、そもそも続けることの難しさから始まるものだということです。まただから、御言葉もこれからの将来についてこのように語るのです。そして、それは、美味しいところだけが信仰を養うものではないからです。その味に馴染むためには時間が必要であり、背後に隠れている様々な難しさと向き合う必要があるからです。また、それがあるから、返ってそのおいしさが引き立てられることにもなるのです。そして、それは、このニコデモとイエス様の対話を見て行くとよく分かるように思います。

 ニコデモがイエス様を訪ねたのが夜であったように、夜のとばりに隠れ、こそこそイエス様を訪ねなければならなかったところに、先ほどから申し上げている、味わい深さを知る上での難しさが現されているように思います。そして、それは、このニコデモがファリサイ派に属する議員であったように、そういう立場の者がイエス様を訪ねるということは世間体の悪いことだからです。ただ、聖書には、ローマの百人隊長のように、それをものともせずに、イエス様に信服した人もいたわけです。ですから、世間体の悪さを気にするのは、その人個人の資質に問題があるということにもなるのでしょう。けれども、ニコデモがそうであるように、そうであるからこそ訪ねずにはいられないのがイエス様というお方と思うのです。それは、私たち一人ひとりを見れば明らかです。私たちがどうしてこうして礼拝に集まったのかと言えば、それはひとえにイエス様に会いたいから、イエス様と共に神様に近づきたいから、そして、イエス様が結び合わせた主にある兄弟姉妹と会いたいから、ですから、私たちの礼拝の形がそのまま教会の姿を現してもいるということです。

 では、ニコデモがそもそものところでどうしてイエス様を訪ねようと思ったのか。今日の箇所の直前に、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とあり、また、ここでニコデモが「ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」と言っていることから、ニコデモもまた、イエス様がなさったしるしを見て、信じた大勢の中の一人であったということです。そして、そのニコデモが、人目を避けて、わざわざやって来たのは、イエス様が今日の最後のところで、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と仰るように、永遠の命を願ってのことでもありました。しかし、復活を受け入れないファリサイ派の人たちにとっては、この永遠の命についてイエス様に尋ねることは、どこか罰の悪いものでもありました。だから、こそこそ、ニコデモはイエス様のもとにやってくることになったのです。

 ただ、ユダヤ教指導者であるニコデモは、聖書とユダヤの歴史に精通した、いわば、その道の権威であり、それゆえ、イスラエルにおいては、人々の尊敬を集める立場にありました。ですから、その専門家に『この人は』とそう認めさせたところに、イエス様のすごさが現されているようにも思いますし、また、ニコデモのそれ相当の地位を考えれば、なお教えを請うその姿勢は、ニコデモの謙虚さと向上心を現しているとも言えるのでしょう。しかし、ニコデモの先ほどの発言からも分かるように、そう判断した自らについては、かなりの自信を持っていたようです。ですから、ものを見る目の正しさとでも言うのでしょうか、ニコデモのイエス様への謙った姿勢は、そんなニコデモの自尊心の裏返しと見ることもできるのでしょう。しかし、ユダヤ社会においてどれほどキャリアを積み、それ相応の社会的評価を得ていたとしても、ニコデモには分からないことがありました。それが永遠の命に至る道筋だったのです。ですから、そのものを見る目の確かさとその必死な姿を見比べるなら、それは、滑稽だとも言えるのでしょう。立派な大人が自分の子どものような年齢のイエス様に甘えているに等しいことだからです。けれども、それを笑うことは誰にもできません。なぜなら、その必死な思いに応えたのがイエス様であったからです。

 そこで、このニコデモに対しイエス様が明らかにしたことは、ニコデモが喉から手が出るくらいに欲しいと願った永遠の命に至る道筋でありました。そして、それが、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とあるこのイエス様のお言葉の中に語られていることでもあるのですが、しかし、ニコデモにとって、イエス様のこの言葉は、自分が考えているものとは違うものでもありました。自分の必死な思いを逸らすだけの、彼にとっては誤魔化し以外の何ものでもなかったからです。だから、ニコデモは、「もう一度、母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」とイエス様に食ってかかったのです。けれども、イエス様は、そんなニコデモの思いをはぐらかすかのように、「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と同じことを繰り返すだけなのです。ただ、もちろん、イエス様に、はぐらす意図はありませんでした。そして、それは、私たちにはよく分かることです。ですから、ニコデモが必死であればこそ、イエス様もまた、その求めるものに真剣に応えようとされている、洗礼を受け、新たな命に与る私たちには、イエス様のその生真面目さ、優しさ、温かさはよく分かります。しかし、その一方で、このニコデモの気持ちも、私たちにはよく分かるのです。

 かつての自分を振り返り、また、今の自分自身を思うと、このニコデモの気持ちはよく分かります。イエス様が仰ることの難しさが私たちを刺激するからです。それゆえ、この正直な気持ちは、普段は心の奥底にしまい込んでいるしかないのですが、ただ、それが、私たちが気がつかない形で見え隠れすることがあります。そして、その後押しをするものが私たちの不安や恐れです。ですから、いつ終わるとも言えないコロナ禍の今、イエス様の仰ることの難しさは、ニコデモのように、時に私たちを苛立たせることもあるのでしょう。先行きの見えない不安が、私たちをして御言葉を空しいものと感じさせることになるからです。ただ、その私たちが「今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった」と、将来、そう口にするようになると、御言葉は語るのです。

 そこで、私たちは、それを口にできたらどんなに素晴らしいことかと思うのです。けれども、どこまで行っても闇は続き、明るくなるその気配すら感じられないとき、御言葉が語るこの味わい深さは、空しさという棘となって私たちの心を深く貫き、時にえぐり出すようなことさえするのです。そして、その時の私たちの気持ちは、ここでのニコデモの気持ちと同じです。けれども、ニコデモと私たちとでは明らかな違いがあるのです。それは、ニコデモと違って、私たちが洗礼を受けているということです。そして、それは、ただ洗礼を受けたか受けないかということですまされるものではありません。「新たに生まれる」、「水と霊によって生まれる」とイエス様が仰っていることは、イエス様と一緒に、私たちが生きる上での難しさを引き受けるということであり、そして、私たちにそれを引き受けることができるのは、私たちがすでにこの難しさを知っているからです。

 イエス様の言葉の難しさを感じたニコデモが、「母親の胎内に入って生まれることができるのでしょうか」と言っていることは、やはりその見識の高さを表しているのでしょう、ニコデモのこの一言は、的を射ているように思います。ただし、ニコデモには、それが的を射たものであることが分かりませんでした。けれども、私たちにはそれが分かります。母親のお腹の中にある状態と、それと同じ経験をしているからです。ただ、この世の常識からすれば、母の胎に戻ることは、ニコデモが語るようにあり得ないことです。私たちがイエス様のお気持ちではなく、ニコデモの気持ちに引きつけられるのは、このあり得ないこととあり得ることとの両方を経験しているからで、そこで、イエス様のお言葉の難しさに触れて、このあり得ないことをすでに経験していたのが自分であることを思い出せばこそ、イエス様の仰ることの真意、つまり、その難しさを理解することになるのです。

 生まれるということは、母親のお腹の中の闇を経験したということです。しかし、この闇は、同時に、命を育む光に包まれたものでもありました。母と子が確かな命の繋がりの中にあるように、新たに生まれる前の私たちもまた、神様とイエス様との繋がりの中に置かれているからです。ですから、そう考えるなら、聖霊の働きは、私たちにとっては、へその緒のようなものなのかもしれません。ただ、このことはまた、十月十日、私たちが闇を見つめて過ごさねばならないということです。こうして生きている中で不安と恐れを感じるのは、この闇ゆえのことでもありますが、けれども、この難しさを経験し、新たな命に生きているのが、洗礼を受けた私たちでもあるのです。ですから、洗礼を受けた私たちは、太平洋をひとりぼっちで生きているのではありません。生まれるということはつまり、家族、共同体、つまり、交わりの中で命を生き始めるということだからです。従って、永遠の命とは、死ぬとか死なないとか、そういう問題ではありません。永遠の交わりの中に置かれた命そのものを現しているのであり、つまり、この永遠の交わりの中に今生きているのが新たに生まれた私たちであるということです。ですから、この永遠の交わりの中へと招かれ、新たな命に与ろうととしているのがこのニコデモであり、それがイエス様をこの世へとお遣わしになった神様の御心であるということです。また、だから、ヨハネによる福音書は、私たちにとって馴染みのある、味わい深い次の御言葉をもって、イエス様の物語を始めているのです。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と、イエス様の物語を始めるにあたり、ヨハネによる福音書はこう語るのですが、それは、それがこうして新しい命に生きる私たちの現実だからです。まただから、イエス様はこの私たちが生きるこの現実について、ここでこう語るのです。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」と。それは、どこにあっても、聖霊の働きの元に置かれている私たちは、神様とイエス様との交わりの外に放り出されることはないからです。祈りましょう。

祈り
天のお父様
 右へと、また左へと、気持ちの定まらない私たちを、あなたはこの朝もその御前に集め、その御言葉に与らせ、父と子と聖霊との永遠の交わりの中に生きる私たちであることを知らしめてくださいました。どうか、私たちが自分の気持ちに溺れるのでもなく、また、沈むのでもなく、私たちの心を支配する様々な困難な課題の中に、なお共にいてくださるあなたと共に、新たな思いをもってこれからも歩み続けることができますよう導いてください。また、そのためにも、聖霊の働きによって、あなたとの永遠の交わりの中にしっかりと留め置いてくださいますようお願いします。特に、あなたに背を向け、生きることへの空しさを募らせる一人ひとりを顧み、また、そのために、あなたの手足として私たちを用いてください。貴き主の御名によって祈ります。アーメン。


  



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