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聖霊降臨節第4主日礼拝
  説教 「手渡されたバトン」

日本基督教団藤沢教会 2020年6月21日

【旧約聖書】ハバクク書 2章1~4節
1 わたしは歩哨の部署につき
 砦の上に立って見張り
 神がわたしに何を語り
 わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。
2 主はわたしに答えて、言われた。
 「幻を書き記せ。
 走りながらでも読めるように
 板の上にはっきりと記せ。
3 定められた時のために
 もうひとつの幻があるからだ。
 それは終わりの時に向かって急ぐ。
 人を欺くことはない。
 たとえ、遅くなっても、待っておれ。
 それは必ず来る、遅れることはない。
4 見よ、高慢な者を。
 彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

【新約聖書】ヨハネによる福音書 3章22~36節
 22その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。24ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。25ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 31「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。32この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。33その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。34神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。35御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。36御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」


手渡されたバトン
 私たちが聖書のみ言葉に聞いていくと言うとき、そこには、二つの意味があるように思います。一つは、記されている言葉を人に読んでもらい、そのまま聞いていくということ、つまり、読み聞かせということです。そして、もう一つは、聖書の御言葉の多くが一人の作者の手によるのではなく、様々な人々の口づてに伝えられたように、つまり、「昔語り」と言われる部類のものであるということです。ですから、聖書の言葉は、ただ読んで、聞かせて、それで終わるものではありません。聖書が文字に記され、一つの書物にまとめられたのが昔語りの時代を経た大分先のことでもあったように、そもそものところで大事にされてきたことは、語り部の語るその言葉であって、情報としての文字ではないからです。

 そこで、語り部と聞き手が意識したことは、語られるその言葉の主体、つまり、聞く者にとって自分に語りかけるそのお方がどなたなのかということです。つまり、神が、イエス様が、今私にお話くださっているということを腹に落としながら語り、また聞いていたということです。だから、人々は語られるその言葉にじっと耳を傾けながら、あの時のことはそういうことだったのか、その時、自分はこうだったなあとか、心の中でいろいろなことを思い巡らせながら、神の声としての御言葉に聞いたのです。そして、そのとき、人々に働きかけたものが聖霊です。従って、語り部の声に耳を傾けるということは、自分一人だけの思いで聞くことではなく、聖霊の働きに委ねるものだということです。それゆえ、聖霊の働きに委ねながら御言葉に聞けばこそ、こういうこともあった、ああいうこともあった、さて、困った、どうしよう、心の中でそう呟きながらも、ハバクク書に「それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない」とあるように、基本的には神様に心を開いているわけですから、大らかな心持ちで御言葉に聞き、主の御心を待ち望むことができるのです。

 ですから、語る上で、また聞く上で大事なことは、御言葉を腹に落とすことに加えて、御心がなると信じ、大らかな心持ちでいられるということです。特に、バビロン捕囚が迫りつつある中で語られたのがハバクク書であり、その特徴の一つとして、信仰ゆえの大らかさをあげることもできるわけですから、それを思いますと、大らかさ、無邪気さというものを、私たちは軽視してはならないように思います。そして、危機的状況の中では、この信仰ゆえの大らかさ、無邪気さが最終的にものをいうことが多く、ですから、それでもなお信仰に立とうとする人々の、その決断に至る上での一連の心の動きを、御言葉は一纏めにして確信などと言ったりもするのですが、確信という言葉の持つ重々しさだけに心を奪われてはならないように思います。私たちの背中を押し、委ねようと思わせるのは重々しさだけではなく、最終的には、大らかさであると言えるからです。

 ですから、今日のハバクク書の御言葉の最後にある、「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」とあるこの御言葉が、ルターのその背中を強く押し、期せずして宗教改革の扉が開かれることになったのも分かります。ルターには最初から教会を二つに割る意図がなく、行きがかり上そうなってしまったことを思いますと、宗教改革の扉を開いたのは、ルターのおっちょこちょいなところ、つまり、その信仰ゆえの大らかさだと言えるからです。そして、このルターについて、今、敢えて、無謀さ、果敢さなどと呼ばずに、おっちょこちょいと言ったのは、信仰とはそういう大らかな一面、物事を喜ぶ一面を大切にするものだからです。ですから、折りにつけ、私は皆さんに、聖書を正しく読み継いできたのが礼拝だと申し上げているのは、それとの関わりで言っていることです。なぜなら、私たちが礼拝において聖書を正しく読み継いできた、と言えるのは、私たちが確信をもって、大らかに御心がなるのを待ち望んでいるからです。そして、それが許されるのは私たちが礼拝で語られる御言葉を、語り手とか聞き手とか、そういう区別の中で語り、また聞いているからではなく、それぞれが一塊になって、まさに一つの家族として御言葉に聞き、そして、この正しさによって養われているのが私たちだからです。ですから、この正しさから外れるものはなく、それゆえ、私たちの神様への誠実な姿勢、イエス様への忠実な態度は、そういう意味で、礼拝に養われ生きる私たちそのものを現しているとも言えるのでしょう。また、そうであるからこそ、私たちは、他の人がどう思うのかは兎も角も、礼拝で語られる御言葉に対し、そうだ、そうだ、その通りだとの思いをもって聞いていくことになるのです。

 そして、この正しさですが、それゆえ、それは神様が私たちの実情をよく分かってくださっているということを意味します。だから、聖書の御言葉には、それを伝えた者と聞いた者とのいろいろな生活実態が反映されることになるのですが、ただ、語られている内容は何千年も前のことゆえ、私たちの生活実態とは余りにもかけ離れていることから、にわかには信じられないことにもなるのでしょう。けれども、それを踏まえた上で申し上げれば、そこで語られている内容を正しく理解するには、私は、基本的には、先ずは御言葉をすべて肯定し、大らかに受け止めるべきなのだろうと思っています。しかし、それは簡単なことではありません。特に、子どもと違って私たち大人の場合には、いわゆる大人の事情と言われるものが様々影響を与え、話を余計に難しくしてしまうことがあるからです。けれども、そうであるからこそ、また、この基本的なものを私たちは大事にすべきであろうと思うのです。そこで、私たちが聖書を正しく素直に、そうだそうだその通りだ、それが神様の御心であり、イエス様のお気持ちなんだと、そう理解するための手がかりを与えてくれているのが、今日のこの洗礼者ヨハネと弟子たちの物語だと思うのです。ですから、そういう意味で、素直になれない私たち大人への気遣いに満ちているのが聖書の御言葉だとも言えるのでしょう。

 そこで、皆さんにお尋ねしたいことは、「神に従う人は信仰によって生きる」とあるこのハバククの言葉に続いて、「だから、私は喜びで満たされている。あの方は栄え、私は衰えねばならない」とのこの洗礼者ヨハネの言葉に聞いて、皆さんは何を思ったのでしょうか。素直に、そうだと思えたでしょうか。ヨハネのこの言葉がどういうところから出て来たのか、それは、弟子たちの「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しをされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方に行っています」とあるこの言葉を受けてのことでありました。そして、弟子たちがヨハネにこう語ったのは、有り体に言えば、お師匠さんであるヨハネを思ってのこと、つまり、ヨハネに対する身贔屓が弟子たちをしてこう言わしめたということです。けれども、弟子たちをしてこう言わしめたのは善意だけではありません。お師匠さんと一緒になって伝道活動をしている弟子たちにとっては、たとえその相手がイエス様であっても、後塵を拝すことは我慢ならないものでもあったからです。ですから、けれども、それは、その良かれと思ってしたことがヨハネには分かってもらえなかったということです。ですから、このことは弟子たちにとってはとても辛いことでもありました。そして、この弟子たちのその気持ちでありますが、それは、私たちにもよく分かることです。後塵を拝すことへの抵抗感と、自らが否定されることへの焦燥感は、理屈を超えて、誰もが持っている素直な気持ちでもあるからです。ただし、だからといって、弟子たちのこの思いに直ちに肯いていいということではありません。イエス様が十字架と復活の出来事を受け入れられないペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と仰ったように、ヨハネは彼らの善意を善意として受け止めるのではなく、否定的に受け止めているように見受けられるからです。

 そして、そこでヨハネが言ったことは、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。私は、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。」というものでした。つまり、師の語ることを理解できない弟子たちの善意は、信仰を理解しない軽挙妄動、浅はかで思慮の足りないものであると、そのように理解できるからです。そして、その上でヨハネが語ったことが先ほどの「だから、私は喜びで満たされている。あの方は栄え、私は衰えねばならない」との言葉であったのですが、そこで、もう一度お尋ねしますが、このヨハネの言葉を弟子たちと同じような状況の中で私たちが聞いたとして、素直に、ハイ、その通りですと、そう返事することができるでしょうか。ちなみに、私にはできません。あの方と言われているイエス様が栄えることには異論はないのですが、自分が衰えることはやはり我慢ならないことだからです。皆さんはいかがでしょう。

 ただ、こういった類いのことは、教会の中だけでなく、いろいろな場面で見ることのできるものです。いわゆる、総論賛成、各論反対ということですが、話は分かる、でも、自分が否定され、損をすることには賛成できないということです。ですから、ここでのことを教会の外の人が見れば、恐らくは、総論賛成、各論反対の類いのものであると思うことでしょう。そして、それが様々な意見を集約した中での、いわゆる客観的な評価と言われることにもなるのでしょう。従って、巷間で言われることは、信仰をもってしてもやっぱり俗人と変わらないんだね、ということです。ただ、そうした言われようにも、私たちは我慢ならないわけです。そこで、それを打ち消すところからヨハネの語ったその言葉を理解しようとするのですが、けれども、御言葉が私たちに伝えたいことは、あれもダメ、これもダメ、全部ダメ、だから、これしかない、そういうことではありません。もちろん、結論から言えば、これしかないということを御言葉は語ってはいるのですが、そして、私たちが、それを、そうだ、そうだ、その通りだと思えるのは、これしかないと思えるものを実際に手にしているからでもありますが、しかし、だからこそ、そこで、立ち止まって考えたいのです。これしかないと言われながらも、実際に手にしたものに満足がいかないとき、そのとき私たちはどうするのか、ということをです。

 私たちの信仰は、サイズの合わない服を無理矢理着せられ、それを着なければならないようなものではありません。また、その反対に、だぶだぶのフリーサイズのようなものでもありません。信仰には長く培われてきた形があり、ですから、なんでも好きにしていいというものではないからです。ただ、それを手にしたくないと思う時があり、じゃあ、そのとき、私たちはどうすればいいのでしょうか。そこで、もし、だからお前はダメなんだと単純に否定され、そこで思った素直な気持ちを嫌々飲み込むのが私たちの信仰だとしたら、また、それが主の御前における素直さだとしたら、誰だってその窮屈さに耐えかねず、すべてを投げ出したくもなるのでしょう。ですから、コロナ禍の今、あれもダメ、これもダメ、全部ダメ、そう言われ出してからの数ヶ月、ヨハネの弟子たちの姿は、今の私たちと重なるようにも思います。じゃあ、どうすればいいのと言うことにもなるからです。ただ、もし、そんなふうにヨハネの弟子たちと自分とを重ねてしまうとしたら、それは、今の自分が立っているところからだけでしか物事を見ていないからです。

 自分の手が届くだけの狭い場所から見えるものは限られたものでしかありません。ですから、それは、手の届く範囲のことだけすから私たちを本当の意味で自由にすることはありません。けれども、ヨハネのこの一言は、その弟子たちを自由にするために発せられたものなのです。それは、ヨハネが「あなたたち自身が証ししてくれる。」と言っているように、弟子を弟子として受け止め、切り捨ててはいないからです。狭い範囲での安心感を求める弟子たちの可能性を、ヨハネはなお信じているのがヨハネであり、そして、ヨハネをしてそうさせるのは、「御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた」と語るように、この「すべて」というところにヨハネも弟子たちも生きているからです。つまり、あれがなければ、これがなければ、こうでないと、ああでないと、自分の手が届く範囲の狭い所だけではなく、「すべて」を担うイエス様と共に生きるのがヨハネであり、その弟子たちであるということです。そして、それは、私たちも同じです。

 ヨハネは最後のところで「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命に与ることがないばかりか、神の怒りがその上に止まる」と言うのですが、この信仰を受け継いでいるのが私たちです。そして、その私たちは、罪深く、欲しいものが手に入らないと、ヨハネの弟子たちのように直ぐにふてくされたり、いじけたりするのです。けれども、主の御名によって殉じたヨハネが「その手にすべてを委ねられた」と言っているように、この「すべて」と言われているものの中に生きるのが私たちなのです。このことはつまり、自分の手の中に何があるかに拘るのが私たちでもありますが、そのため、着せられたものをやれ窮屈だ、やれだぶだぶだと、文句ばかりが口についてしまうのです。そして、思うに任せず、やれあれが欲しい、やれあれがないと騒ぐことにもなるのです。まただから、自分の手の中にあるものの多い少ないというところで、人の価値や自分の価値を推し量ろうとするのです。けれども、すべてはイエス様の御手の中にあり、その中に生きるのが私たちであると、御言葉は言うのです。

 ですから、ヨハネが語る神の怒りということに私たちはビクビクする必要はありません。「すべて」と言われている以上、イエス様の御手の中に生きるのが私たちであり、ですから、その中で与えられたものはすべて、悪いままで終わることはありません。これまで通りに生きることのできないこのコロナ禍にあって、私たちは、様々な場面で自分が否定されたと思ってしまうこともあるのかもしれませんが、この時も、そして、これからも、その私たちを御手の中に置き、すべてを与えるのがイエス様なのです。それゆえ、イエス様と共になすこの時の経験は、将来の私たちをより豊かなものにすることでしょう。ですから、そのために私たちに求められていることは、ビクビク、おどおどすることではありません。御手の中にあるがゆえの大らかさです。ただ、もちろん、御言葉は、無分別な行動を私たちに勧めているわけではありません。戦争、飢饉、様々な感染症の中を生きてきたのが教会であるように、教会には、大らかに生き抜く上での知恵が与えられているのです。そして、その知恵とは何か、それは、昨年日本を訪問されたフランシスコ教皇の言葉に表されていたように思います。

 教皇はこう仰いました。「私たちにとって最も大切なことは、何を持っているか、何を得られるか、ではなく、誰と(人生を)共有できるかということなのだということに気づくことだ。「何のために生きるのか」ではなく、「誰のために生きるのか」にフォーカスすべきなのだ。自分に問いなさい。「私は何のために生きるのか」ではなく、「誰のために生きるのか」「私は誰と人生を共有するのか」を。」と。つまり、愛するということですが、この愛という言葉を私たちは与えられているのです。ただし、それは、隣人を縛り、自分だけに都合のいい世界を作り上げるためのものではありません。また、自分を突き放すかのような気遣いのないものでもありません。あらゆる束縛から解放され、互いを生かし合うもの、それが愛であり、そして、この知恵を身をもって現し、今もこの知恵をもって関わってくださっているのが私たちのイエス様でもあるのです。つまり、私たちにとっての知恵とはつまり、イエス様が共にいまし、そのイエス様の御手の中にすべての者、すべての出来事が置かれている、そう私たちが信じるところに現されるものが知恵であり、また、だから、私たちは大らかに現実を受け止めることになるのです。祈りましょう。

祈り
私たちを初めより終わりまで導きたもう、父と子と聖霊の主なる御神様
 あなたにあって与えられたこの命を、あなたは、御言葉をもって輝かせようとしてくださっています。そのことを覚え、感謝します。ただ、そのあなたの思いを知りながらも、私たちは、そのあなたの御心を負担に思い、その窮屈さから逃れようとして、返って、自分を見失ってしまう、弱い者でもあります。そして、この弱さを自らの力で乗り越えようとして、多くの罪を犯す愚かな者でもあります。しかし、あなたは、その私たちに御子という知恵を与え、聖霊の働きをもって私たちの命を支えてくださっています。どうか、御子を信じるにふさわしく私たちを歩ませてください。あなたと共に、また、隣人と共に、日々生きることの喜びを分かち合い、歩むことができますよう導いてください。そして、そのためにも、あなたの厳しさを大らかな気持ちで受け止めることができますよう、私たちのその心を聖霊の息吹で満たしてください。貴き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


  


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