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聖霊降臨節第6主日礼拝 説教 「風を受けて」
                        日本基督教団藤沢教会  2020年7月5日
【旧約聖書】ヨナ書 3章6~10節
6このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、7王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。
 「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。8人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。9そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」
 10神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 4章27~42節
 27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
 31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
 39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」


風を受けて
 コヘレトの言葉3章には、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められたときがある」とありますが、私たちそれぞれに与えられている役割についても同じことが言えると思います。牧師にとって説教はその与えられた役割の一つでもありますが、そこで、その定めに従って、今日の説教題を「風を受けて」としてみたのです。けれども、本当は「風を受けて」ではなく、「風に吹かれて」としたいところであったのですが、しかし、そうしなかった、それには一つの理由がありました。しかし、自分に与えられた役割を思えば、ここではやはり「風に吹かれて」とすべきだったと思います。

 さて、こうして御言葉に聞いている私たちにとって、風とはすなわち、聖霊の働きそのものです。そして、この聖霊について繰り返し語るのがこのヨハネによる福音書でもありますが、そこで思わされることは、この聖霊こそが私たちにその役割を思い起こさせ、求める答えを届けるものだということです。そして、それは、イエス様が「種蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」と弟子たちに語るように、労苦を分かち合い、その役割に徹し、共に生きる上で感じる喜びです。ですから、この、喜びの分かち合いこそが、神様の役割を担う者に許された、信仰ゆえの果実だと言えるのでしょう。それゆえ、今日のそれぞれの御言葉に現されていることは、聖霊の働きという、この風の中に生きる人々の姿です。また、そうであるからこそ、この風を感じた人々が思い至る一つの境地として、ヨハネは「信じる」「分かる」ということを語るのです。そして、それは、ある特別な立場、ある特殊な能力を持つ人たちだけに許されたものではありません。それぞれに与えられた役割をその人が担えばこそ、神様によって自ずともたらされるもの、それが喜びの分かち合いであり、信じるということだからです。

 そこで、この喜びの分かち合いがどのように人々の間にもたらされることになったのか、一人は、私たちが子どもの頃より慣れ親しんできたヨナであり、もう一人は、サマリアの女と呼ばれるこの一人の女性です。神様と出会い、イエス様と出会い、新たな役割を与えられたこの二人は、ちなみに、ここが大事なところだと思うのですが、それぞれに与えられた役割を担えばこそ、二人は、分かり合うことの難しいその相手と喜びを分かち合うことになったのです。従って、私たちそれぞれに与えられている役割は、そのように方向付けられているものだということです。つまり、その伝えるべき相手とは、分かり合える相手、親しみの持てる相手だけではないということです。

 ただ、この二人がそのような道を辿ることになったのは、二人が立派な大人物であったからではありません。神様の召しが気に入らず、怖じ気づき、その役割から逃げ出したのがヨナでありました。また、サマリアの女と言われている一人の女性は、夫をとっかえひっかえと変え、イエス様と出会ったときには、今風に言えば、新しい彼氏と暮らしている始末であったわけです。ですから、世間的に言うと、いわゆる身持ちの悪い女ということになるのでしょうが、ですから、買い物から戻ったばかりの弟子たちが、イエス様とこの女性が二人でいるのを見て驚いたとあるのはそれゆえのことでもありました。それゆえ、誰が見ても、この二人が大事をなすような志の高い人物とは思えません。けれども、その一人は、一つの国を救い、そして、もう一人は、自分の同胞、仲間を救うことになったのです。ですから、そのような者に一つの役割を与えた神様もイエス様も偉いし、また、自分がつまんない奴と分かりながらも、その上で、その役割に徹したこの二人も偉いと思います。けれども、御言葉が伝えたいところは、私たちが思う一時の偉さではありません。なぜなら、人の世が抱えた曰く言い難き問題は、それですべて終わったわけではないからです。

 救われた人々はいずれも宗教的に見れば、依然として汚れた者でしかなく、それゆえ、関わりを避けねばならない人々、神様に救われる価値もない人たち、そのように見なされる人々でありました。つまり、人の目から見れば、何も変わってはいないということです。けれども、その上で救いということを語り、また、役割に生きることの貴さを語るのが御言葉でもあるのです。そこで、子どもの頃、中指と人差し指を重ねながら、互いに「えんがちょ」 と言い合う遊びを思い出すのですが、古今東西、ケガレを遠ざけるためのお呪いのようなものはたくさんあって、「えんがちょ」もその一つです。しかし、神様とイエス様が私たちに与え、また求めることは、「えんがちょ」と指をかざすことではありません。互いに分かり合えない人々が分かり合えるようになることであり、そのために、神様とイエス様は、互いを隔てる障害を取り除き、互いを知るための門戸を開かれたのです。ですから、それだけに御言葉の語ることの意味は大きいように思うのですが、けれども、その意味するところは、断捨離のように不要だと思うものを片っ端から片付けることではありません。

 宗教的ケガレの感覚が薄まり、子供たちの間で「えんがちょ」が流行ることがなくなったとしても、いじめやネットでの中傷、非難は後を絶たず、それどころか、以前では伏せられていたものまでが公然と語られてもいるのです。ですから、異質なものを排除したいと願う、そうしたネガティブな感情は、世の中から消え去るどころか、激しさを増していると言っていいのでしょう。ただ、私の知る限り、以前はこれほどではなかったようにも思います。それは、この、触れるのが恐い、汚い、嫌だ、といった、生理的嫌悪感は、心の奥深くにしまい込んで置くものとの共通理解があったからです。つまり、それが世の中の建前であったということです。けれども、それが建前であるところに、事ある度に排除へと揺れ動く、私たちの持っている根深いものを感じざるを得ません。凄惨で猟奇的な事件を扱った小説が人気を博すことにもなったのはそれゆえのことでもありますが、ところが今はどうでしょうか。そうした感情を否定するどころか、普通に受け入れられ、さらに悪いことには、エスカレートさせて行っているように思うのです。ただ、もちろん、それに対して、以前とは比べようもないくらいに否を唱える人の数も多くなってはきています。けれども、そこで一つ気になることがあります。それは、排除へと動く人々に対するその反応の仕方です。大方の人々はそうではないのですが、中には、目には目をといわんばかりに、同じように生理的嫌悪感をもって対処とする人々がいるのです。それも、それが以前と比べて多く、また激しくなってきているようにも思います。ただ、多くの場合、そうした人々の姿は、私たちの日常と直接関わってくるものではありません。それゆえ、そうしたことは、私たちが教会に引きこもっている限り、縁遠い世界のことだとも言えるのでしょう。けれども、先日、日本基督教団を語って、中華街であったことを思いますと、子どもの悪ふざけと言ってすまされない事態は、壁のすぐ向こう側まで迫ってきているようにも思います。

 このように、救いの門戸が開かれたとしても、私たちの目から見て、この曰く言い難き問題がこの世から一掃されたわけではなく、そして、それがイエス様が見ているものでもあるのです。ですから、私たちが御言葉の中に見ていることは、現代にも通じる曰く言い難き問題であり、けれども、そこに分かち合いの門戸を開き、そして、そのために私たちそれぞれに大切な、そして、必要なその役割を与えたのが神様とイエス様であるのです。ちなみに、「風に吹かれて」というとある年代以上の方が真っ先に思い出すことは、ボブ・ディランでもあるのでしょう。そして、ボブ・ディランの「風に吹かれて」というこの曲が作られたのは、アメリカの公民権運動真っ盛りの頃であり、大勢の人々の努力によって、時代は確かに動き、当時と比べ、人の考えも感覚も大きく変わったのは間違いありません。そして、私たちにとって、それは、聖霊が時代を動かし、社会と人とを変えたということでもありますが、このように、聖霊の働きは、今も昔も、変わりなく働いているものなのです。けれども、このことはまた、だから私たちが欲しいと願うものをじっと立ち止まっていつまでも待ち続けていれば、そのうち聖霊が必ず欲しいものを届けてくれるよ、ということではありません。今、当時と比べることができない位に進歩、発展したとしても、今アメリカで起こっていることを見れば明らかなことだからです。聖霊の働きを求めるということは、器の中に願い通りのものがその時だけ満たされればそれでいいというものではないからです。

 イエス様がここで語る命の水、「私の食べ物」と仰るものは、器に水が一杯になればそれでいいというものではありません。また、皿の上に美しく盛られた料理が差し出され、それを堪能できればそれで満足ということでもありません。今日の御言葉の少し前のところで「永遠のいのちに至る水が湧き出る」とイエス様が仰るように、私たちに与えられた命の水とは、その瞬間だけの満足で終わるものではなく、動きがあり、続くものであるということです。つまり、湧き出て、流れ続けるもの、それがイエス様が命の水と呼んでいるものであり、そして、それは、7章でイエス様が、命の水とはすなわち、聖霊だと仰るように、命の水である聖霊を私たちの生きるこの世界に絶えず送りだし続けるのが神様であり、イエス様であるということです。ですから、そこから考えれば、イエス様が「私の食べ物とは、私をお遣わしなった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と仰ることはよく分かります。ここでイエス様が「あなた方が自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、私があなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りに与っている」と仰るように、絶えず手元に送られる御心によって支えられているのが私たちの命であり、それゆえ、イエス様がこの「私の食べ物」と仰るものを私たちが分かち合うなら、そこには自ずと人の喜ぶ姿が現されることになるからです。

 そして、それを約束するものが神様とイエス様との出会いです。そのために神様は聖霊を送り、それを周囲の人々、隣人と分かち合うべく私たちにその役割を与え、新たな出会いを築くべく導かれるのです。ただし、この出会いを気楽に考えてはなりません。出会いが与えられるのは、世の中的には何も変わらないし、何にもいいことなど一つもない、そう確信をもって言える状況の中でのことでもあるからです。けれども、それでもなお、それぞれに与えられた役割を担ったのが、ヨナであり、このサマリアの女と呼ばれる一人の女性であり、弟子たちであったのです。それは、これらの人々が風に吹かれて毎日を過ごす中で、神様を知り、イエス様を知ったからです。そして、そうなることは、イエス様にもはっきりと分かっていました。だから、「種を蒔く人も刈り入れる人も、共に喜ぶのである」と確信をもって言葉にすることができたのです。

 聖霊の働きを受け、与えられた役割に生きる私たちの目指す方向は、信仰ゆえの果実を自分だけが楽しめればそれで良いということではありません。収穫の喜びは、共に分かち合うべきものであり、自分だけが、という独りよがりのものではないからです。ただ、その答えは、私たちの手の中にすでに絶えず望んだように与えられるわけでもありません。そのためにまた、私たちは、自分の思い通りに事を運びたくもなるのでしょう。そして、そう願い、熱心に行ったある種の成功体験が、いつの間にか建前となり、御心がなりますように、という素朴の思いからではなく、自分自身の願望を優先させることになるのです。それは、社会正義であったり、社会的成功であったり、様々な姿を装うように思いますが、けれども、それが、共に喜びを分かち合うべく方向付けられていなければ、つまらないものになってしまいます。ですから、世の中を席巻した建前を否定し、その建前が徹底的に破壊尽くされたかに見える昨今、多くの人々にとっての関心が、自分一人だけのこと、自分の手の届く狭い範囲ことに向かうのは分かる気がします。自らを正し、律するものが自分の思いや考え、つまり、満足でしかなくなってしまっているからです。それゆえ、そうした中で、喜びを分かち合うと言い続けることは、実につまらない話、ということにもなるのでしょう。それゆえ、かつてのような明確な答えが見つかりにくい状況の中で、ですから、私たちにとってもまた、もしかしたら、信じるということも、そのために御旨を分かろうとすることも、さらには、与えられたその役割に徹することも、つまらないものとその目に映ることにもなるのでしょう。しかし、人と喜びを分かち合い、信仰に生きるということは、本当にそれほどまでにつまらないものなのでしょうか。

 自分を棚に上げて敢えて申し上げるのですが、つまらないものをおもしろくするにはどうすればいいのでしょうか。共に喜びを分かち合うために、私たちはどのようにしてその役割を担えばいいのでしょうか。それは、自分に正直であるということです。そして、この自分に正直であるということは、自分のことだけしか考えられない自分であることを素直に認めるということです。ただ、このことはまた、恥ずかしい自分、つまらない自分、格好の悪い自分、神様やイエス様や他の人によく思われたいと思っている自分を認めるということです。けれども、それはつまらないことではありません。ヨナやこのサマリアの女と言われている女性がそうであるように、自分がそういう自分であることを認めた先に待っているのが、信仰の面白みであり、共に喜び分かち合うことの楽しさだからです。ですから、それを認めたとき、その人は、人を楽しくさせるでしょうし、また、そこで喜びを分かち合うわけですから、人をも自分自身をもウキウキさせることにもなるのでしょう。そして、これこそが聖霊の働きに委ねると言うことであり、風に吹かれて、生きるということでもあるのでしょう。そこで、この風に吹かれてという曲を作った直後のボブ・ディランの言葉を紹介したいと思います。

 「この歌についちゃ、あまり言えることはないけど、ただ答えは風の中で吹かれているということだ。答えは本にも載ってないし、映画やテレビや討論会を見ても分からない。風の中にあるんだ、しかも風に吹かれちまっている。ヒップな奴らは「ここに答えがある」だの何だの言ってるが、俺は信用しねえ。俺にとっちゃ風にのっていて、しかも紙切れみたいに、いつかは地上に降りてこなきゃならない。でも、折角降りてきても、誰も拾って読もうとしないから、誰にも見られず理解されず、また飛んでいっちまう。世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ。俺はまだ21歳だが、そういう大人が大勢いすぎることがわかっちまった。あんたら21歳以上の大人は、だいたい年長者だし、もっと頭がいいはずだろう。」

 風に吹かれて、喜びを分かち合いつつ、この一週間を過ごす私たちでありたいと思います。祈りましょう。

祈り
天の父なる神様
あなたに向かい、アッバ父よと祈り、また、その私たちの祈りに応えるべく、あなたは私たちに聖霊を送り、その働きをもって、そのあなたの思いと、あなたの思いの中にある自らを知ることお許しくださっています。そのことを覚え、心より感謝します。父の心子知らずと言われるように、時に私たちは、あなたの御心を汚れたものと決めつけ、拒み、そして、あなたに向かって心を閉ざしてしまう弱く愚かな者でもあります。けれども、あなたは、それでもなお私たちに変わらずに聖霊を送り続け、その命の水と命の糧をもって養い続けてくださっています。神様、その私たちが安らかな思いをもってこの一週間を過ごし、また、安らかな思いをもってこの一週間、人や物事と関わることができますように、そして、その喜びをもって再びあなたの御前へと集まることができますように、私たち一人一人を顧み導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
 
注1)
「片手の人差し指と中指を交差させる行為は、西洋においては、試験などに臨む者に対して「君の成功を祈る、頑張って」という意味で用いられる。元々は初期キリスト教において指の交差は十字架を意味し、「神はあなたと共にいる」という意味を表した。」
            ウィキペディア「エンガチョ」の項目参照






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