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聖霊降臨節第7主日礼拝 説教 「最悪の状況の中で」
                        日本基督教団藤沢教会  2020年7月12日
【旧約聖書】ホセア書 14章2~8節
2 イスラエルよ、立ち帰れ
 あなたの神、主のもとへ。
 あなたは咎につまずき、悪の中にいる。
3 誓いの言葉を携え
 主に立ち帰って言え。
 「すべての悪を取り去り
 恵みをお与えください。
 この唇をもって誓ったことを果たします。
4 アッシリアはわたしたちの救いではありません。
 わたしたちはもはや軍馬に乗りません。
 自分の手が造ったものを
   再びわたしたちの神とは呼びません。
 親を失った者は
   あなたにこそ憐れみを見いだします。」

5 わたしは背く彼らをいやし
 喜んで彼らを愛する。
 まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。
6 露のようにわたしはイスラエルに臨み
 彼はゆりのように花咲き
 レバノンの杉のように根を張る。
7 その若枝は広がり
 オリーブのように美しく
 レバノンの杉のように香る。
8 その陰に宿る人々は再び
 麦のように育ち
 ぶどうのように花咲く。
 彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 4章43~54節
 43二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。44イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。45ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
 46イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。47この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。48イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。49役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。50イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。51ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。52そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。53それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。54これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。


最悪の状況の中で
 一巡りの歩みを終え、新たな始まりを迎えた私たちでありますが、皆さんはこの朝をいかなる思いをもって迎えられたことでしょう。そこで、お尋ねしますが、では、世界が経験した最初の一週間、そこで神様が思ったことは何だったでしょうか。それについて、御言葉はこう語ります。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と。つまり、神様がそのとき感じたことは、世界のできの良さで、全体からあふれ出るその美しさです。「極めて良かった」と御言葉が語ることは、そういうことであり、従って、これこそが、この世界に向けられた神様の御心であるということです。それゆえ、この神様と同じ思いをもってこの世界を見つめているのがこの朝を迎えた私たちであり、特に、主の安息の内に置かれているこの日、私たちが心に留めるべきものは、この神様の御心以外他にないと、そう言っていいのだと思います。

 では、私たちはどうして神様と同じ思いをもって、そのように世界を見つめることができるのか。それは、私たちが神様に似せて造られているからです。つまり、神様と同じように、美しいと感じる心、それを見分ける目が私たちには与えられているということです。まただから、知恵の教師コヘレトも「神のなさることは時宜にかなって美しい」と語るのです。それゆえ、目に映る世界の美しさに加えて、自らの人生についても、私たちはこの同じ視点をもって見つめることができるのです。ですから、私たちの人生がたとえどんなに挫折や失敗に満ちていたとしても、また、どんなに傷つき、深い痛手を負ったとしても、自分自身が神様の似姿であることを見失わない限り、私たちの人生は、間違ってもいびつなものになることはありません。神様が美しいと言ってくれる、そのままの祝福に与ることになるのです。

 しかし、だから、すべてを神様任せ、おんぶに抱っこでいればそれで済むという話ではありません。神様にすべてをお任せしたとしても、私たちの気持ちがおざなりなものであったらどうでしょうか。また、気持ちはあっても、実が伴わなかったらどうでしょうか。それは、言葉にするまでもありません。素晴らしいと、そして、美しいと、私たちをしてそう感じさせるのはどうしてなのかということです。そこで、ホセア書を見てみますと、その一番最後にこう記されています。「主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み、神に背く者はその道に躓く」と。つまり、世界が美しい、世界に生きることが素晴らしい、私たちがそう思えるのは、すべてを神様にお任せすることが正しいと知っているからです。また、だから、打算なく、素直にすべてを神様にお預けし、その言葉通りに生きたいと願うのです。そして、それは、虚心坦懐に神様に委ねるということでもありますが、ですから、私たちが、神様の造られた世界の美しさと、私たちを生かすその御心の麗しさを本当に知りたい、見たいと思うなら、今日の新約聖書に登場するその父親のように、神様を前にして己を虚しくすることが大切だということです。それは、今日のそれぞれの御言葉が示すように、自分が出過ぎるところでは、何かが足りないためにスカスカになるか、また、余分なものが邪魔をしてギトギトしたものになるか、そのいずれでしかないからです。

 さて、御言葉を通してそんなことを思わされたわけでありますが、そう思ったのには、もう一つ別の理由がありました。幼稚園が始まり、毎朝、子供たちと接していて、以前見たある映画を思い出したからであり、その主題歌がふと頭をよぎったからです。そこで、私が思い出した映画ですが、それは、「汚れなき悪戯」というモノクロ映画でありました。主人公マルセリーノのあどけなさとその印象深いラストシーン、哀愁に満ちたその主題歌は、とても印象深いものでしたが、ただ、なぜこの作品が私の記憶に残り、その主題歌がふと頭をよぎったのかというと、それが学校をサボって見た映画であり、この日の御言葉とその映画の記憶が直感的に重なったからです。

 登園を再開して一ヶ月、ようやく各クラスそろっての保育が始まりましたが、業務命令で始まった私の朝のお迎えも、今では一日を始めるに当たっての大切なルーティーンになっています。元気に登園してくる子どもたちの嬉しそうな様子もさることながら、一日一日、一人一人、まったく違う様子の子どもたちに接するのは、本当に楽しいものだからです。中でも、誰一人として幼稚園に来るのを嫌がらないのは、幼稚園にいい思い出のない私にとっては実に驚きです。それゆえ、子どもたちの直感に働きかけるものが、すべての子どもたちをしてそうさせているとしたら、私たちがしていることは間違ってはいないということです。ただ、それが間違っていないと言えるのはどうしてなのでしょうか。

 多くの子どもたちを集める大規模園と比べ、みくに幼稚園は、本当に小さな幼稚園です。このことはつまり、私たちは、多くの親たちの支持を集めきれてはいないということです。従って、今お伝えした私の子どもたちの見方は、大方の人のものの見方、考え方とは必ずしも一致してはいないということであり、ですから、それについては、私たちの課題だということです。ですから、みくに幼稚園が教会附属であることを踏まえるなら、皆さんも是非このことを心に留め、お祈りいただきたいと思いますが、ただし、それは、だから、世に倣えといわんばかりに何かを変えなければならないということではありません。それについて敢えて申し上げるなら、私はこのままでいいと思っています。私たちがこれからも大事にすべきことは、子どもたちの直感に働きかけるものであり、みくに幼稚園の子どもたちはそれを大切にしてくれているからです。そして、そこに現されているものこそが、私たちの信じる神様の御心でもありますが、ですから、世界の美しさと、生き甲斐を含めた人生の麗しさを明らかにしてくれるものに手を加える必要はありません。そして、先ほどの私の高校時代のこともそうなのですが、学校をサボって、というところに、今まで少し引っ掛かっていたのですが、でも、こじつけのように思われるかもしれませんが、直感への働きかけという点からすれば、あれはあれで良かったし、また、幼稚園は幼稚園で、「これでいいのだ」とそう思うのです。

 ただし、私がそう思ったのは、ただただ嬉しいばかりの子どもたちを毎日見ているからではありません。そのことに加えて、登園し、直ぐ始まるその人間模様が私をして「これでいいのだ」と思わせたのです。ですから、変な話、ケンカをしていても、泣き叫んでも、笑っていても、怒っていても、子どもたちが直感として感じているところは、すべて嬉しそうですし、楽しそうなのです。それは、雑味がないというか、素材のそのままが生かされているというか、それは、見入ってしまうくらいに本当に魅力的なのです。ただ、そんな悠長なことを私が言っていられるのも、私が傍観者のような立場にあるからです。しかし、職員たちは、そういうわけには参りません。子どもたちの受け入れに加えて、新しい生活様式にも対応しなければならず、特に今、てんやわんやなわけですから、私のように悠長なことを言っていられる余裕などあろうはずもありません。ですから、こんなことを言ったと後で知られると、職員たちに怒られるかもしれませんので、内緒にしていただきたいのですが、でも、よくよく考えれば、それも余計なことなのかもしれません。職員を含めた人間模様の中で働くものが、こうして御言葉を通し聞いている神様の御心であるわけですから、私が怒られるというのも、子どもたちと同様、御心が働いているという確かな証拠でもあるからです。

 しかし、そうであるにも関わらず、ついつい枝葉の部分にばかりに目がとまり、そのために、どうしようどうしようと思い、御心に余計なものを差し挟んでしまうところがあるのはどうしてなのでしょう。そして、それは、この日の御言葉の中にある人間模様を見ても同じことが言えます。御言葉を前にして、この日、私たちが垣間見ているものは、イエス様を中心とした、虚心坦懐というわけにはいかない私たち人間の姿です。そこで、先ず知らされることは、イエス様が故郷で疎んじられていたという事実ですが、ところが、イエス様の評判を聞きつけた故郷の人々は、いわゆる、故郷に錦を飾ったイエス様に対して、今度は、掌を返すかのようにその正反対の態度で臨むのです。ですから、イエス様でなくとも、人々の二心あるその姿には誰でも苛立ちを覚えることでしょう。それゆえ、その直後に登場する王の役人への対応は、そのとばっちりを受けてのことだとも言えるのでしょう。ただ、当の本人にしたらどうでしょうか。

 「息子を助けてください。助けられるのはあなたしかいません」と、そう言ってすがるその父親に対して、そこでイエス様が仰ったことは、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」というものでした。そこで、苛立つイエス様の姿を見て、皆さんはどう思うのでしょうか。教会に通い始めたばかりの頃、このイエス様の言い草には、正直、カチンときたのを覚えています。助けてくださいといっているわけですから、ハイ分かったと言って直ぐに動けばいいのに、理屈にならない理屈をイエス様が並べ立てているわけで、ですから、えっ、と思ったわけです。しかも、結局、最後にはその子を助けたわけですから、端から直ぐに動けばいいのにとも思ったのです。

 ただ、そのような結末に至ったのは、この父親の必死な姿があったからでもありました。それゆえ、救いの道をこじ開けたのはこの父親だとも言えるのでしょうが、ただ、そうするのは父親であれば当然です。「お前は信じてはいない」と言われて、すごすごと引き下がるわけにはいかないからです。そこで、父親は、「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と必死の形相でイエス様にすがりつくのですが、すると、イエス様がそこで何んと仰ったのか。それは、「分かった」という誰もが期待する一言ではありません。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」という、よく分からないこの一言だけであったのです。このように、またしても主イエスのなさったことはよく分からないものであったのですが、ところが、この父親はイエス様のその言葉を信じ、結果、子どもは癒やされることとなり、そして、その癒やされた時刻とイエス様が言葉を発した時刻とが同じであったというところで、この話はまとめられてもいるのです。それゆえ、分かりやすいようにも思うのですが、ただ、それについては、どこかしっくりしないところが残ります。そうした信仰美談的な理解については、直感的になるほどとは思えないからです。イエス様が神の子として、その力をいかんなく発揮されたというのは分かるのですが、けれども、それが私たちがここで聞くべき答えだとしたら、もしその反対の事態に直面したとき、私たちは何を思えばいいのでしょうか。この御言葉に触れたときにはイエス様は正しいと思ったとしても、現実の中でこの父親と同じようなことがなければ、その時、私たちが直感的に思うものはどのように評価されることになるのでしょうか。

 イエス様が生きた時代も、その後の時代も、それどころかつい最近まで、すべての子どもが無事に成人を迎えるわけではありません。そして、それは、現代においては、貧しい国々を見れば分かることです。死は身近なものであり、いつ我が身に及ぶともしれないものであり、そして、ここ数年、私もそのことを身にしみて感じさせられるものでありました。大切な友人、大切な家族を天に送ることになったからです。そして、その中で、この父親のようにイエス様に願い、祈るものでもありました。しかし、残念ながら、その祈りが聞かれることはありませんでした。そして、それは、イエス様が生きた時代もそうですし、その後の教会の時代もそうです。ですから、死を間近に感じるとき、世界は美しいものではなく、また、人生も麗しいものでもありません。けれども、御言葉は、その美しさと麗しさを語り、そして、ここでもそうです。ホセア書に記されていることも、イエス様を中心としたその人間模様も、それを私たちに伝えてくれているのです。ところが、死に直面したとき、私たちはそれとはまったく別のことを考えてしまうものです。だから、評判を聞きつけて、そこに集まり、また、悪ければ、そこを立ち去ることになるのです。神様とイエス様のことを、さらには、世界と自分自身の人生すらも、まるで歯医者か美容院を選ぶのと同じように、自分の思い通りにしようとあくせく動き回るのです。けれども、そこに見るもの、それが、私たち人間の人間模様でもあるのでしょう。

 汚れなき悪戯の主人公マルセリーノは、孤児として12人の修道士たちに育てられたのですが、ある時、入ってはならないといわれた部屋に入ったところ、そこには十字架に付けられたキリスト像が置かれていました。そして、その悲しい様子からか、マルセリーノは、お腹がすいていると思い、修道士たちの目を盗んでパンとぶどう酒をキリスト像に運ぶのです。すると、そこに奇跡が起こったのです。イエス様の手が動き、そのパンとぶどう酒を受け取るのですが、そうした中で、ある時、イエス様がマルセリーノに言ったのです。「何か願いをかなえてあげよう」と。そこで、孤児であったマルセリーノが言ったことは、自分のお母さんに会いたいということ、そして、あなたのお母さんに会いたいということでした。そこで、イエス様は、マルセリーノに尋ねます。「今すぐにか」と。そして、マルセリーノは答えます。「今すぐに」と。こうして、マルセリーノは、イエス様の膝の上で永遠の眠りにつくことになったのですが、ただし、このことはまた、イエス様が五歳の子どもの願いを聞き入れて、御国へとお召しになったということです。60年以上前の映画であり、今とはだいぶ世の中の様子も違いますが、ただ、当時、このラストシーンに多くの人々は涙させられたものでもありました。

 ところで、もし、今この映画が封ぎられたとしたら、人々の反応はどうなるのでしょう。退屈な映画だと酷評されるかも知れません。見所であるラストシーンは、主人公の年齢が五歳であることを考えれば、六十年前とは正反対の評価が下されるのかも知れません。しかし、仮にそうした評価が下されたとしても、イエス様が十字架についた今、御言葉が私たちに求めることは、それを頭ごなしに否定することではありません。悲しみと苦しみ、様々な不都合なものを初めからなかったかのようにすることで、私たちの平安の礎が築かれることはないからです。ただ、このことはまた、私たちが大いなる矛盾を引き受けることでもあります。イエス様に「信じていない」と言われた父親がまさにそうであったと思います。けれども、この父親のように、私たちが自分の率直な思いと神様の御心の間に立つとき、この矛盾の中に尚とどまるイエス様の姿を見るのです。御言葉が私たちに伝えてくれていることはこのことであり、だから、人々が死を身近なものとして感じ、かつ、大きな悲しみや多くの苦しみを人々が感じる中で、なお、人々によってイエス様は信じられることになったのです。

 物事を上手く運ぶか運ばないか、その拘りが私たちの人間模様を作り上げるのは間違いありません。そして、自分本位に動く人間模様は、確かに褒められたことではないのでしょう。また、そうであるから、私たちは上手く物事を運ぶことに捕らわれてもしまうのでしょう。けれども、私たちのそうした人間模様を見つめながら、それでもなお、共にいてくださっているのが私たちのイエス様でもあるのです。このことはつまり、幼子が助かったからイエス様が共にいるということではなく、絶望の中でこの父親がイエス様にすがりついたように、私たちが、いるということに立ち、しがみつくからこそ、そこからイエス様が立ち去ることはないということです。この父親がイエス様を信じて、家路につくことができたのはそれゆえのことであり、そして、それは、いるとかいないとか、主観的にとか、客観的にとか、そういう私たちが信じられる材料を並べ立てて、その結果、そうなったということではありません。直感として、いることを理解した、感じさせられた、このことは、後先を考えるところからそれは始まるものではありません。御言葉が、神様の御心をこれ以上確かなものはないと語るるように、イエス様のいますところに立ってこそ、そこで初めて言葉にできるものであり、そして、それが許されているのが私たちであるということです。

 ですから、そういう意味で御言葉に記されていることは、神様とイエス様が共にいてくださっている中での私たち信仰者の人間模様であるということです。それゆえ、そこで大事にすべきことは、自分の願い通りに上手くいくか行かないかということではありません。人間模様だけを見ているだけでは、直感として感じるところは、世界は美しいかも知れないし、美しくないかも知れない、また、そこに生きる者の人生も麗しいかも知れないし、麗しくないかも知れない、この「かもしれない」というところに留まるしかないからです。けれども、この父親のように虚心坦懐に、私たちがイエス様が共にいてくださっていることにすがりつき、この方に全てをお任せするなら、その時、私たちは知るのです。世界の美しさと人生の麗しさを。私はそのことを御言葉と教会との関わりと私たちに与えられているみくに幼稚園の子どもたちを通し、改めて教えられたように思うのです。祈りましょう。

祈り
天のお父様
 あなたの御心の内にこの朝を迎え、そのあなたの御心の内にその生涯を過ごし、そして、そのあなたの御手が私たちの上より取り除かれることなく、私たちを最後までを導いてくださっていることを覚え、心より感謝します。定まらぬ私たちでありますが、幼子のようにあなたの手だけを握りしめ、日一日を歩ませてください。あなたの御名を褒め称える群れとして、御名にふさわしく私たちを導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。







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