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聖霊降臨節第8主日礼拝 説教 「御心のままを歩む」
日本基督教団藤沢教会 2020年7月19日 |
【旧約聖書】ミカ書 7章14~20節 |
14あなたの杖をもって
御自分の民を牧してください
あなたの嗣業である羊の群れを。
彼らが豊かな牧場の森に
ただひとり守られて住み
遠い昔のように、バシャンとギレアドで
草をはむことができるように。
15お前がエジプトの地を出たときのように
彼らに驚くべき業をわたしは示す。
16諸国の民は、どんな力を持っていても
それを見て、恥じる。彼らは口に手を当てて黙し
耳は聞く力を失う。
17彼らは蛇のように
地を這うもののように塵をなめ
身を震わせながら砦を出て
我らの神、主の御前におののき
あなたを畏れ敬うであろう。
18あなたのような神がほかにあろうか
咎を除き、罪を赦される神が。
神は御自分の嗣業の民の残りの者に
いつまでも怒りを保たれることはない
神は慈しみを喜ばれるゆえに。
19主は再び我らを憐れみ
我らの咎を抑え
すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
20どうか、ヤコブにまことを
アブラハムに慈しみを示してください
その昔、我らの父祖にお誓いになったように。
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【新約聖書】ヨハネによる福音書 5章19~36節 |
19そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。25はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。26父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。27また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。28驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
30わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
31「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。32わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。33あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。34わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。35ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。36しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
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御心のままを歩む |
私たちが祈りの内に度々口にする言葉に「御心」という言葉がありますが、ところで、この神様の「御心」とはどういうものなのでしょうか。一言で言えば、それは、良いものであるということです。そして、私たちがそう受け止めているのは、今日の最後のところで、イエス様が「私の裁きは正しい。私は自分の意思ではなく、私をお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」と仰るように、イエス様が「御心」に最後まで従順であったからです。それゆえ、イエス様を信じる私たちにとって、御心とは、本質的に正しく、何一つ間違ってはいないということです。そして、この御心の本質的正しさは、今日の旧約聖書中に「お前がエジプトの地を出たときのように、彼らに驚くべき業を私は示す」とあるように、その正しさを私たちは経験的に知っているということです。ですから、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る主の祈りは、まさにそういう私たちの祈りであるということです。それゆえ、御心の正しさを言葉に言い表すことは、私たちにとって口先だけのものとはなりません。浮世離れした現実味のない言葉ではなく、私たちの日々の暮らしに働きかける、現実そのものだと言えるのです。
このことはつまり、御心とは、「私たち」という実の伴うものでもあるということです。つまり、イエス様を信じる私たちをして、この世に目に見える形で現されるものが神様の御心であり、ですから、イエス様が「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ」と仰るように、私たちが御心の正しさを世に現わすことがなければ、イエス様が再びこの地上に戻ってこられるとき、私たちは、イエス様からお叱りを受けることにもなるわけです。ですから、そうならないためにも、御心をしっかりと心に刻んで、御心を現すことが大切です。イエス様が教えてくださった主の祈りは、そういう意味で私たちに御心を思い出させる大切な祈りであり、まただから、私たちの人生、生涯は、意味あるものとされることにもなるのです。
そこで、そんな私たちそれぞれの普段の暮らしを思い起こしてみたいのですが、私たちが御心という言葉を用いるのは、どのような場面においてでしょうか。また、そのとき、御心の正しさ、その良さが、すべての人に同じように伝わっているでしょうか。つまり、自分だけではなく、その相手にも「なるほど、その通りだよね」と、そう言ってもらえるほどに、主観的にも、客観的にも正しいと言えるものなのか、それが、私たちが普段からよく使うこの「御心」という言葉なのかということです。それについてはいかがでしょうか。
正しいから正しい、素晴らしいから素晴らしい、とどれだけ叫ぼうとも、伝わるときには伝わるし、また、伝わらないときに伝わらない、それが世の習いでもあるのでしょう。そのため、私たちは、なんとかその正しさを人に分かってもらおうとして、時に声を大きくしたりもするのですが、ここでのイエス様もそうです。ただ、正しいことを正しいと言い切るだけでは、そこで語られる正しさは、身も蓋もないものとなってしまいます。ですから、私たちがイエス様とユダヤの人々との間に見ているものは、世の中的には、そういう類いのものだとも言えるのでしょう。しかし、もちろん、御言葉は、そういう身も蓋もない話として、イエス様の言葉を私たちに伝えるわけではありません。そこで語られていることには、揺るぎない信仰者の確信があり、それが、24節以下に記されている「はっきり言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている」とあるイエス様のお言葉の中に言い表されていることでもあるのです。
そこで、「永遠の命を得」とあることですが、それが、イエス様を信じることによって私たちが手にしているものでもありますが、御言葉は、今、ここで、と語っているわけです。そして、それを誰でもない、イエス様が仰っているわけですから、これ以上確かなことはありません。けれども、私たちにとってはそうであっても、イエス様を神の子として信じることのできない人々にとってはどうなのでしょうか。正しい、正しいとただ訴えるだけでは、どうやらその正しさが人に伝わるものではないようです。ですから、それを人に伝えるためには、その正しさを実証しなければなりません。しかし、敢えてそうしているとしか思えないのが私たちの目の前にあるイエス様でもあるのです。それも、イスラエルの歴史と伝統に則りつつ、イエス様は、自らの主張を通そうとしているわけですから、身も蓋もない話として受け止められても仕方ありません。それゆえ、そこで彼らは、こう思ったことでしょう。「こいつ、自分に都合良く、御心という言葉を使いやがって」と。
こうして、人々の反発を買うことになったイエス様でありますが、そこでイエス様がなさったことは、自らの主張への権威付けでした。父なる神様との一体性とそれゆえの正統性を訴えるわけですが、ただ、もちろん、これについて、私たちはユダヤの人々と同じようにイエス様のことを見ることはありません。けれども、ユダヤの人々の理解は、私たちの理解とはまったく正反対の方向を向くものでした。神様との一体性を語りつつ、自らに対しなすその権威付けは、自らを神と崇めよということであり、それだけにまた、受容することのできないものでもあったからです。ですから、話としては、もはやこれまで、ということにもなるのでしょう。しかし、イエス様にはその考えはありませんでした。30節に「私は自分では何もできない」とあるように、自分の考えや思いを好き勝手に、それこそ、身も蓋もない話をしていたわけではないからです。
ただ、イエス様と同じ伝統と歴史に生きていたのがユダヤの人々でもありました。つまり、ユダヤの人々は、神様の独り子の言葉を一番理解していいはずの人々であったということです。ところが、それを人々に理解してもらえない、神の子としての正統性とその権威を云々する以前に、御心が御心のままに伝わらない、そんなイエス様のもどかしさ、寂しさと辛さを思わずにはいられません。けれども、それがまた、神様の御心に生きる私たちのこの世でのあり方でもあるのでしょう。ですから、目の前のイエス様の姿は、私たちの信仰者としての一つの方向性を示しているものだとも言えるのでしょう。そして、それは、対立の図式の中に身を置き、信仰者として御心を現していくということでもありますが、けれども、そこでイエス様が語りかけることは、対立が敵意、憎悪へと発展し、そして、この敵意と憎悪を支えるかのように働きかけるものが、私たちの神様の御心ではないということです。
ここでは確かにイエス様とイエス様に反発する人々との間に、神様の御心を巡っての対立を見ることができます。そして、このような対立が生じるのは、それぞれが互いに信仰をいい加減に捉えてはいないからです。そのため、私たちの関心は、どうしてもどちらに軍配が上がるかというところに向かいがちなのですが、もちろん、そう考えることは、とても大事なことです。善なるお方が悪しき者に敗れていいはずはないからです。けれども、御言葉が明らかにするところはそうではありません。善なるお方が悪しき者に敗れ、しかも、この善なるお方を支持した人々までもがイエス様を見放したという事実です。けれども、それにもかかわらず、イエス様は、軍配の行方は、私たち人間の思うとおりにはゆかないと語るのです。
イエス様を信じる私たちの命は、御心ゆえにその肉体の死をもって終わるものではありません。永遠の命を手にしているというのはそういうものだからです。ただし、それが私たちに許されているのは、私たちが御心に従順で忠実であるからではありません。すべて御心ゆえのことであり、しかし、死が私たちの上より完全に取り除かれたわけではない以上、勝ったか負けたかで言えば、私たちは、目の前にあるユダヤの人々と見た目には何ら変わらないものでもあるのです。そのため、私たちは、その溝を埋めようとして御心を求めることにもなるのですが、ただ、それが思い通り、期待通りに行かないことが多々あるわけです。そのため、私たちは、御心を自分の都合のいいように解釈し、また、御心という言葉を都合良く用いて、自らを優位な立場に立たせようとするのです。しかも、それが許されないことを知りながらも、それすらも厭わない、それは、御心という言葉が私たちをしてそのように魅了するものでもあるからです。
けれども、御心に魅了されているのは、私たちだけでなく、イエス様の目の前にある人々も同じです。イエス様のことが許せないのはそのためであり、そして、十字架の出来事が示すように、それが私たち人間でもあるのです。ですから、御心を求めてやまない私たちの思いがこの世の現実の一端を形作っているのは間違いありません。それゆえ、そうした状況は改めなければならない。イエス様が「裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。」と仰るのは、そんな神様の御心を体現するイエス様ゆえの言葉と言えるのでしょう。ただし、それは、そういう私たちの有様を憂い、自分の思い通りの姿に変えようとしてのことではありません。イエス様が仰る「裁きを行う権能」とは、腕力にものを言わせてのことではなく、現実を現実として捉えることのできる胆力を現しているのであり、まただから、イエス様は四の五の言わずに御心のままに十字架につくことができたのです。そして、このことはまた、そのイエス様が自らについて「人の子」と呼んでいることからも分かります。人の子とはつまり、イエス様が私たちと同じ現実に生きているということであり、生きたからこそ、そこに現されたものが、そのまま神様の御心であると言えるからです。
このように、私たちが生きる現実は、イエス様が示されたように、神様の御心によって包まれているのであり、ですから、それが私たちの目から見てどれほど歪んだものに見えようとも、また、私たちの思いからしてどれほど無意味なものに思えたとしても、それは、イエス様ゆえに大きな意味を持っていると言えるのです。まただから、御心の中に置かれた私たちの人生、生涯も意味あるものとされるのです。ただし、それは、ここでのイエス様がそうであるように、だから、波風立たないということではありません。この世界が御心に覆われていながらも、イエス様とユダヤの人々との間に対立が生じたように、御心と人の罪とのがせめぎ合うこの世界にあっては、御心を巡っての混乱と対立は避けようもないことでもあるのです。まただから、それを整理するかのように、人はあくせくすることにもなるのですが、ここではそれが、イエス様と対立するユダヤの人々であるということです。そして、この混乱を整理するために人が用いようとするのが言葉でもあるのですが、その際、結果に対して影響を与えるものが、その人なりの価値観や分別心です。つまり、それが色眼鏡で物事を見るということなのですが、人がそうするのは、色眼鏡をかけて、有害と思しきものをシャットアウトすることができれば、それはその人にとって、とても有意義なことでもあるからです。けれども、そこで用いる言葉にどれほどの意味があると言えるのでしょうか。
例えば、東という言葉がありますが、東という言葉は、東西南北との関係性において始めて意味を持つものです。つまり、私たちが用いる言葉は、あらゆるものとの関係性の中にあって初めて意味を持つもので、現実的には、絶対の東という言葉は成り立ち得ないということです。ですから、自らの正統性に訴えるだけでは、現実をそのまま余すところなく現すことはできません。それゆえ、御心という言葉についても、それと同じことが言え、従って、ただ正しい、正しいだけでは、その正しさが伝わることもないのです。まただから、正しい、正しいとのせめぎ合いが混乱を生じさせることにもなるのです。イエス様とユダヤの人々との対立は、まさに、言葉に執着するがゆえに陥りやすい、そんな私たち人間の弱さを現していると言えるのでしょう。
しかし、それでも、この言葉をもって現実を捉えるしかないのが私たち人間でもあるのです。そこで、それとはまったく別の視点を開いているのが、このヨハネによる福音書でもあるのです。言葉は神と共にあり、言葉は神ご自身であったとの宣言をもってイエス様の物語を語り始めているのがこのヨハネによる福音書でもあるからです。そして、そこで語られている言葉とは、イエス様ご自身のことです。やったやられた、あっちとこっち、と、私たちが現実を分かりやすく整理して理解するための言葉ではありません。けれども、私たちがこの言葉を理解しようとするとき、そこには必ず自分というものに拘る力が働き、それが時に現実を歪ませることになるのです。そして、私たちはそこから逃れることはできません。自我、エゴというものを捨て去って、生きることはできないからです。ですから、それを守ることができないとき、現実の中で私たちは自分を見失い、自分を支えるための言葉を失うことにもなるのです。ですから、それは、人生を失うことであり、自分の生涯が無意味なものにされるということです。けれども、人生を失い、無意味としか思えない生涯を歩まれたのがイエス様でもありました。
イエス様のご生涯は、私たちが人間の言葉をどれほど駆使しても、説明尽くせるものではありません。ユダヤ人との間に生じた混乱が、イエス様が人の子であるがゆえに生じた混乱であるように、こうして私たちが、神様の御心でもあるイエス様について語ろうとするところにも、それゆえ、そもそもの混乱の理由があるのです。ですから、私たちがしていること、これからしようとしていることは、そういう意味で、すべて混乱と矛盾に満ちているとも言えるのでしょう。けれども、この矛盾とそれに伴う混乱のただ中で語られているのが、今、私たちがこうして聞いている御言葉であり、そして、そこに私たちが神様の御心を見ることができるのは、混乱と矛盾のただ中に、イエス様が立ち、そして、今も立って私たちと共にいてくださっているからです。まただから、イエス様は、「すべての人が、父を敬うように、子を敬うようになるためである」と仰るのです。
神様とイエス様を敬うということは、神様とイエス様を礼拝するということです。そして、それは、私たちがこの世の混乱と矛盾を見つめるということであり、つまり、無力な自分であることを思う存分味あわされるということです。ですから、そういう意味で、神様とイエス様を礼拝すると言うことは、自分を空っぽにするということであり、そして、神様とイエス様の御前に跪くことで、虚しきことの多い世にあって、神様とイエス様のお言葉で自分自身を一杯にするということです。そして、そこで満たされる言葉とは、私たちの拘りに合わせ、満足を与える言葉ではありません。虚しきことの多い世にあって、私たちと同じ命を活き、今も尚、私たちと共にいてくださる私たちのイエス様ご自身を私たち自身の中に一杯にするということでもあるのです。そして、それが、この朝、私たちに許されていることであり、この恵みに与りながら新たな一週間へと送り出され、導かれているのがこの朝の私たちであるということです。祈りましょう。
祈り
貴き主イエス・キリストの父なる神様
矛盾と混乱のただ中に生きる私たちと、イエス様はともに立ち歩んでくださっています。そして、そのイエス様より口伝えに言葉をいただき、その言葉を口にすることの許されているのがイエス様を信じる私たちです。どうか、自分を空っぽにし、人としての思いや考えで自分を満たすのではなく、あなたとイエス様の言葉で自分を一杯にすることができますように、日々、聖霊を通し、私たちをその言葉で満たしてください。そして、イエス様と同じように、世の人々と関わることのできる私たちとしてください。貴き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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