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聖霊降臨節第11主日[平和月間]礼拝
  説教 「生きることは食べること」

                        日本基督教団藤沢教会  2020年8月9日
【旧約聖書】箴言 9章1~6節
1 知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。
2 獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え
3 はしためを町の高い所に遣わして
 呼びかけさせた。
4 「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」
 意志の弱い者にはこう言った。
5 「わたしのパンを食べ
 わたしが調合した酒を飲むがよい
6 浅はかさを捨て、命を得るために
 分別の道を進むために。」

【新約聖書】ヨハネによる福音書 6章41~59節
 41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48わたしは命のパンである。49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。


生きることは食べること
 長崎の原爆投下からちょうど75年目を迎えました。原爆が投下された時刻は、第1回目の礼拝の終わり近くでもありますが、あの日、長崎で何があったのかは、皆さん、よくご存じのことと思います。そして、この記憶は、この場にいる私たちだけでなく、この国に生きる大半の人々が共有していることでもあるのでしょうが、それと同じように、日々、キリストの出来事を心に刻みつけ生きるのが私たちキリスト者です。ただ、私たちが心に刻んでいる十字架と復活の出来事は、私たちにとっては負の記憶ではありません。恵みと喜びの出来事であり、神様の栄光を現すものなのです。それゆえ、私たちは、ここに記されていることを否定的に見ることはありません。しかし、ここに登場するユダヤ人たちは違いました。いぶかしそうに主イエスの言葉に聞いているのです。そして、その理由は、彼らが語る「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降ってきた』などと言うのか」というこの言葉の中に現されています。こうして、人々は、イエス様のことを改めてその思うとおりに心に刻むことになったのですが、その一番の理由は、イエス様の言葉と自分たちの記憶とが一致しなかったからです。では、私たちはどうでしょうか。イエス様のお言葉を否定せず、言葉と記憶が一致しているのが私たちでもありますが、それは、その口から発せられるお言葉と、そのお言葉に聞きつつ歩んだイエス様との時間、そこでいただいた数々のお恵み、このように言葉と記憶が心の中で収まりを持っているからです。

 ですから、ここでイエス様が仰るいくつかの言葉は、私たちにとっては違和感のない言葉ばかりだと思います。たとえば、44節です。イエス様は、「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私の元に来ることはできない。私はその人を終わりの日に復活させる」と仰るのですが、これは信仰ゆえに私たちに与えられている神様の約束を語る言葉です。だから、私たちは、このイエス様のお言葉を聞き、今がどうしようもない状態に置かれたとしても、この先に希望を抱きつつ今を生き、終わりの日を待ち望むことができるのです。ルターの「それでも私はリンゴの木を植える」と言ったリンゴの木の譬えは、そのことを物語るものでもありますが、つまり、それが私たちの信仰、別の言い方をすれば、物事に対するスタンスを現しているということです。また、この約束を端的に語るのが47節にある「信じる者は永遠の命を得ている」というこのイエス様のお言葉です。ここに私たちがこの希望を抱くべき理由があるのですが、それは、イエス様が「私は命のパンである。・・これを食べる者は死なない。私は天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」と仰り、しかも、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」、「このパンを食べる者は永遠に生きる」と二度同じことを繰り返すように、私たちは、このパンを、つまり、イエス様の命に与るがゆえにすでに永遠の命に生きているからです。

 従って、イエス様を信じ生きる私たちにとって、生きるとはすなわち、イエス様の命をいただくこと、食べること、そして、それを糧として成長し、命を繋ぐこと、そういうものだということです。ですから、私たちの信仰は、イエス様を実際に味わい、そこで味わった記憶の蓄積によって支えられているとも言えるのでしょう。従って、イエス様について否定的な意見を持っている人たちは、その経験と記憶に欠ける人たちであるということです。それゆえ、イエス様についての負の記憶を蓄積することとなり、そして、それは、イエス様を食べたこともないし、食べようともしないからで、まただから、自分の物差し、色眼鏡でしかイエス様を見ることができないのです。それゆえ、そんな彼らのことを食わず嫌いな人たちと、そんなふうに言うこともできるのでしょう。

 ですから、イエス様のことを本当に知りたいと思うなら、実際に食べてみるしかありません。食べてみなければその良さを知ることもないからです。それゆえ、イエス様を信じているということは、実際にイエス様を食べてみて、そのおいしさを知って、そして、また食べたくなるほどにその味に満足しているということです。それだけではありません。生きることは食べること、食べることは生きることと言われるように、食べるということは、自分が満足するしないにとどまらず、食べるからこそ私たちの命は支えられ、また、支えられるからこそ、諸々の活動も活発なものとなり、命は様々な広がりを持つことにもなるのです。このように、食べるということは、私たちが生きる上でなくてはならないものであり、それだけ大切なものでもあるのですが、イエス様が仰ることは、信仰についても同じことが言えるということです。

 そこで、今日の箇所にも通じることでもあり、敬愛するある先輩牧師の話を思い起こすのですが、それは、その先生が、末期癌の教会員の病室を訪ねたときのことです。その信徒さんの病状はとても重く、まったく食事を取れない状況にありました。けれども、驚くことに、その時、聖餐を共にすることが許されたそうのです。そして、感謝して、その方は牧師に対しこう仰ったそうです。「肉の糧をもう口にすることはできませんが、命の糧、霊の糧をいただき、生きる力を得ることができました。ありがとうございます」と、にっこり微笑みながらそう仰ったそうです。私がこの話を聞いたのは、何気ない会話の中でのことでしたが、しかし、とても印象深く心に残っているのです。それは、その時、私たちの信仰とはそういうものなんだと改めて心に刻むことになったからです。そして、今、そのことを思い出したのは、イエス様がここで仰っていることが、その信徒さんの聖餐に与った際の感謝の言葉と重なり合うからです。それゆえ、またこうも思うのです。

 イエス様はここでこう仰っています。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物だからである」と。つまり、イエス様の命をいただいているからこそ、私たちは生きていると言えるのですが、このことはまた、ここでイエス様が「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる」と仰るように、イエス様の命をいただくからこそ、私たちはイエス様との一体感を味わい知ることができるからです。このことはつまり、イエス様の命をいただくということは、自分が食べるか食べないかということではなく、また、自分が気に入る気に入らないということでもないということです。イエス様との交わりがそこに成立しているからこそ、その命に与ることができるのであり、まただから、イエス様を中心とした関係性を御言葉は「家族」と呼ぶのです。ですから、私たちにとっての聖餐とは、まさに家族としての関係性そのものを現すものであり、まただから、その命に与ることで私たちは満足し、また、聖餐を本当に美味しいと、自分を生かす命の糧だと、先ほどの申し上げた信徒さんのように、感謝の内にそう感じることになるのです。

 ただ、それだけにまた思うのです。聖餐の恵み、その有り難さ、それを知識として知り、また、納得したとしても、私たちは普段から本当に心底からそう感じているのでしょうか。皆さんは、いかがでしょうか。ありがたいものであることは誰が認めることでもあるのでしょうが、けれども、聖餐が自分を生かすものだと、さらに言えば、私たちに生きる力を与えるものが聖書と聖餐であることを考えますと、聖書の御言葉をも同じように自分を生かすものだと、いつもそう思い、感謝して与っているのでしょうか。恐らく、こう尋ねられると、私も含め、多くの方は自分の信仰にいささか自信が持てなくもなるのでしょう。

 今、コロナ禍ゆえに聖餐式を実施できずにおりますが、このことからも分かるように、物事というものは、いつも当たり前のように望むべきものを望むように手にすることができるわけではありません。先ほどの終末期の信徒さんのように、長い一生のうちには、共に与ることの難しい状況に置かれることもあるからです。ですから、食べるためには、私たちはいくつかの課題を乗り越えなければならないわけで、当たり前のようにいつでも欲しいときにいくらでも手に入れられるものではないということです。そこで、コンビニで好きなものを好きなだけいつでも手にするように、それと近い感覚が常態化したらどうでしょうか。その味わい深さは、また違った趣を呈すことにもなるのでしょう。なぜなら、手にしたいと思う心の中心にあるものは刺激と満足感でしかないからです。裏を返せば、ありきたりなものに満足できずに新たなものを探し求め、満足が行くまで消費し続けるということです。ですから、そこでは、食卓を共にする家族は必要ありません。必要なものは、コンビニや電子レンジがいつどこで誰と一緒にいても同じ味、刺激を約束するように、自分の満足を得るための便利な道具です。しかし、どれほど社会が変化したとしても、食べるということは、そもそものところで赤ちゃんがそうであり、成長期の子どもたちがそうであるように、自分一人だけが満足すればいいというものではありません。食べるということは、本来、個人の裁量や自由だけにすべて任されるものではなく、誰かに食べさせてもらうものであり、また誰かと一緒に食べるものであって、そこに拘り、それを大切にしてきたのが私たち人間でもあるからです。それは、食べるという行為の中には、他者との関係の調整や維持という機能が備わっているからです。

 ところで、皆さんのお宅はどうでしょうか。いただきますの前に、家族のいずれかの人が先に一人で食べ始めたり、あるいは、つまみ食いしたりしたら、黙ってみていることができるでしょうか。つまらないことのように思われるかもしれませんが、食べるということも生きるということもそのことと深く関わっているように思うのです。霊長類学者の京極寿一さんは、そこに人間とサルとの分かれ目があると言っているのですが、それは、仲間との食事を避け、自分だけの満足を追求するのがサルの特徴でもあるからです。ですから、サルは自分が見つけたものを仲間と分かち合うこともありません。そういう意味で、サルは、徹底して個人主義的なのだそうですが、けれども、人間は違います。少なくとも、そのように歩んでこなかったわけです。ですから、イエス様が仰ることもこの前提に立ってのことだと思うのです。それゆえ、コロナ禍の今、私たちが意識すべきことはこの点だとも思うのです。なぜなら、同じ物をいっしょに食べることによって、私たちは共に生きようとする実感がわいてくるし、それが信頼する気持ち、共に歩もうとする気持ちを生み出すことにもなるからです。ただ、今はそれが許されない、それゆえ、私たちがこれまで大切にしてきたものをこれからも大切するためは、そこで工夫が求められもするのですが、けれども、今しきりに言われているソーシャルディスタンスは、コロナ禍以降に発生した特別な現象なのでしょうか。

 食べるということの中で育まれてきたものが共感する力であり、人と人とが繋がる力だとしたら、私たちの信仰もまたこの前提に立っているということです。けれども、今、私たちがこの信仰に自信が持てずにいるとしたら、それは、どうしてなのか。自信が持てずにいる人を見下し、軽くあしらうような場面を時折目にすることがありますが、それは、そんな自信のなさの裏返しなのかもしれません。そして、もし、そうであるとすれば、それは自分という個人が際立って、行き過ぎているからなのではないでしょうか。ですから、表面上は信仰的体裁を取りながらも、仲間と心を合わせて、仲間のために何かしてあげたいという気持ちが弱くなっているとしたなら、そうした姿勢は改めなければなりません。そのままでいたなら、イエス様の存在は、どんどん小さくなってしまうのでしょうし、また、イエス様が小さくなると様々な弊害が生じることにもなるのでしょう。勝ち負けが気になり、勝ち馬に乗ろうとする傾向が強まり、自分に都合のいい仲間だけと繋がろうとするのが目立つようになってきます。京極寿一さんは、それが現代の傾向であり、ですから現代社会は、サルの社会に似た個人主義的で閉鎖的な社会を作ろうとしているように見えると仰るのですが、では、こうして御言葉に聞いている私たちは、この指摘をどう受け止めればいいのでしょうか。

 民芸運動の創始者であり、朝鮮半島の日用品、雑器などの文化的価値の高さに気づき、その保存に心血を注いだ柳宗悦の句が先週の折々の言葉に載っていましたが、それは、「ほととぎすいつ聞くとても(聞く度毎〈ごと〉の)初音かな」という句でした。そして、そこで評者が言っていたことは、生(う)ぶなものの見方の大切さです。それは、ありのままの美しさをそのまま感じることを大切にしていたのが柳宗悦という人であったからで、そして、この柳宗悦がそこで大事にしたものが「直感」というものでした。つまり、イエス様の知り合いだからといって知ったかぶるのではなく、そのありのままの姿に触れ素直な感動を覚えること、私たちの信仰とはそういうものなのではないでしょうか。ですから、キリスト教を出発点として、宗教的真理を探し求めた柳宗悦は、神というものについて、こう述べています。「誰も神の愛なくしては神に愛されることはないのです。神に愛されているということは、神の行いであって、私の行いに原因するものではないのです」と柳はこう語るのですが、ここに信仰に自信が持てなくなったときの答えがあるように思うのです。つまり、信仰とはすなわち、自分が分かるとか、納得するかとか、そういうことではなくて、イエス様を信じるがゆえに、私たちは神様との関係性に生きている、ですから、自信が持てないときのその答えは、このことにただただ安心することである。そして、それは、できるとかできないとか、そういう問題ではありません。すでにそうなっているし、これからも変わらない、それがイエス様を信じるということだ、そのように私は思うからです。

 ですから、これについて私なりの言葉で申し上げれば、イエス様を信じる私たちとはつまり、お母さんに抱かれている赤ちゃんと同じであるということです。分かっても分からなくても、お母さんは赤ちゃんに話しかけます。お腹がすけば、おっぱいを与え、そして、おむつが汚れれば変えてくれるのです。イエス様の命に与る私たちは、そういう形で神様と共に生きているのであり、また、そういう意味で、イエス様に養われているのです。ですから、御言葉も聖餐も、そういう私たちと神様との根源的な生のあり方を示すものだと思うのです。まさに母親が我が子におっぱいを含ませる等しいものだということです。それゆえ、それは、刺激を絶えず求め続けるようなものではありません。自分を満足させるまで消費し続けるような意地汚く浅ましいものでもありません。優しく温かい、けれども、刺激だけを求め続ける者にはそのおいしさを感じることができない、そういうものだと思うのです。しかし、その味は、その味わい深さを知っている者も、それを毛嫌いする者も、さらには軽くあしらう者も、同じように人生のどこかで必ず味わった味でもあるのです。それは、私たち人間はすべて神様によって生きているからです。そして、イエス様は、そのことを伝えるために私たちと共にあるのであり、また、それを知らしめるために、すべての人々をご自分の御前へと招くのです。イエス様と共に神様の御懐に抱かれていることを新たに心に刻みつつ、新しい一週間の歩みを始めたいと思います。

祈り
愛する天のお父様
 驕り高ぶる私たち人間の愚かさ、醜さを思いつつ、なお、その私たちを御救いへと招かれるあなたの御心を思い、十字架と復活の出来事ゆえにこうして生きることの幸いに与らせていただき、本当にありがとうございます。このあなたへの感謝をあなたご自身に喜んでいただくためにも、主にある兄弟姉妹、世の隣人と共にその恵みを分かち合うことのできる私たちとしてください。イエス様の御名によりお祈りします。アーメン。






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