音声スタートボタン
印刷用PDF(A4版4頁)
聖霊降臨節第12主日礼拝[平和月間] 説教 「憎しみの中に」
                        日本基督教団藤沢教会  2020年8月16日
【旧約聖書】士師記 6章36~40節
 36ギデオンは神にこう言った。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、37羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。」
 38すると、そのようになった。翌朝早く起き、彼が羊の毛を押さえて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。39ギデオンはまた神に言った。「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」40その夜、神はそのようにされた。羊の毛だけは乾いており、土には一面露が置かれていた。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 7章1~9節
 1その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。2ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。3イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。4公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」5兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。6そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。7世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。8あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」9こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。


憎しみの中に 暫定版
 多くの日本人にとって、8月は特別な意味を持っていると言えるのでしょう。なぜなら、そこで記憶されているものは、記憶されるべき出来事の12分の1に過ぎないものではないからです。そして、それは戦争についてのことだけではありません。今年は、コロナによる社会的自粛要請によって、多くの人々が帰郷を断念せざるを得ませんでしたが、盆と正月に惜しみない労力を注いできたのが私たち日本人でもありました。それは、多くの人々がそこに生きることの意味を見出してきたからです。そして、そこで重要な意味を持つのが家族との絆でもありますが、ただし、絆とは生きている家族との関係性だけを意味するものではありません。家族とは、今は亡き先祖たちをも含めてのものであり、それだけにまた、年の初めに会うことで、家族の行く末を確かめ合おうとするのです。それは、盆と正月が個々の生と死に意味づけるものとして機能しているからであり、それゆえ、人々の間で当たり前のように大切にされることになったのです。そして、戦後には、そこに新たな意味が加わることとなりました。それが戦争という出来事でもありますが、けれども、多くの戦争経験者にとって戦争の記憶は、理念的で理性的な判断によって解決のつくものではありませんでした。

 広島の原爆死没者慰霊碑には、生きている者の死者に対する語りかけとして「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」との言葉が刻まれていますが、それは、その日を覚えることが、多くの人々にとって、死者からの生者に対する語りかけの機会と捉えられているからです。このように、お盆は、戦後の多くの人々にとって、生と死を問う大切な、そして、欠かすことのできない、そういう意味で大事な行事であるのです。では、多くの人々が送り火を焚いて先祖の霊を見送るこの日、私たちは、御言葉から何を聞いていけばいいのでしょうか。それは、因習や迷信を差別と偏見の温床と見なし、ただ蔑んで終わることではありません。なぜなら、その是非を問えば、その答えが明瞭である出来事にもそこからこぼれ落ちる人々が必ずいるもので、その気持ちをも拾い上げるのが私たちの主、イエス様だからです。ですが、それだけにまた、イエス様の御心は私たちには分かりにくく、また納得の行かないものでもあるのでしょう。それは、正しいと信じるその信仰がイエス様の手によって挫かれているように思えるからです。しかし、かつて信じたものに裏切られた経験を持つ私たちにとって、何かを信じ信頼するということは、勝ち負けに拘ることでもなければ、勝ち馬に上手に乗ることでもないはずです。つまり、負けを認めず、終戦を告げる詔勅を録音したレコードを奪い、多くの人々の死に対して鈍感になり、信念に殉じるものではないということです。どんな時にも私たちに求められていることはイエス様に倣うことで、この方のお言葉に聞き、そのお言葉に自分自身を重ね合わせ、そのお言葉を同じように実行することです。イエス様がこの日私たちに求められていることはこのことであると思うのです。

 故郷ガリラヤに戻られたイエス様は、自らの役割を担うためにガリラヤ中を巡り歩きました。ところが、その活動ゆえにガリラヤでもユダヤの人々の反発を招き、そのためにまた、その身に危険が及ぶこととなりました。それゆえ、この憂慮すべき事態に、故郷の家族も気が気ではなかったろうと想像します。ところが、その兄弟がイエス様に語ったことは、「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、密かに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」というものでした。そこで、その反応は二つに分かれることにもなるのでしょう。兄弟たちを拒絶するか、あるいは、兄弟たちへの称賛を惜しまないか、そのいずれかであると思うのですが、ただ、イエス様の使命を考えるなら、兄弟たちの発言の意図は十分理解できることです。使命に生きる以上、使命に殉じるのは、ある意味で当然のことだとも言えるからです。ですから、そう考えるとイエス様に向けられたこの兄弟たちの声は、イエス様への期待が大きく、神の子ならばこうあって欲しい、こうあるべきだと思う、私たちの声だとも言えるのでしょう。それは、私たちが見たいイエス様とは、こそこそ逃げ回るイエス様ではなく、敵対するものにも堂々と立ち向かうイエス様であるからです。

 ただ、この兄弟たちの声については御言葉は次のように語るのです。それは、「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」と、つまり、イエス様に向けられた兄弟たちの叱咤激励は、御言葉的には的外れなものであったということです。従って、この兄弟たちの勧めには、そもそものところでイエス様も従う必要はありませんでした。ただ、その勧めに従わなかったのにははっきりとした理由がありました。イエス様が『世は・・私を憎んでいる。私が、世の行っている業は悪いと証ししているからだ』と言っているように、ご自分の使命とその役割をしっかりと理解されていたイエス様でありますので、目には目を、歯には歯をと、世に浴びせかけられる憎しみへの直情的な反応は、その役割を大きく損なうものだということはよくお分かりでありました。それゆえ、従わなかったのは、イエス様の個人的資質の高さによるとも言えるのでしょう。けれども、ここでは、イエス様の能力にその答えを求めるのではなく、「私の時はまだ来ていない。」、「私の時が来ていないからである」と同じことを二度御言葉が語るように、その理由はまだ「その時」ではなかったということです。それゆえ、これについてはまた、称賛と拒絶に分かれるであろう兄弟たちの勧告についてもこう判断することができます。私たちがそれをどう評価しようとも、それはどちらでもいいということです。大事なことは、「時が来ていない」ということだからです。

 ただし、「時」を見極めることは簡単なことではありません。ある出来事に遭遇したとき、それを是とすることもあれば、非とすることもあり、また、それだけではありません。非と見なしていたことが、何かを切っ掛けに是と転ずることもある、戦争において私たちが経験したことは、まさに「時」を迎えた時の人々の心の揺れ動く様でもありました。従って、御言葉がイエス様の兄弟たちのことを「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」との評価を下しているように、その時を迎えたときには、そのようなレッテルを貼られないように、私たちも努めなければなりません。そして、そのために懸命に努力してきたのが、私たちクリスチャンの戦後の歩みでもあり、そして、それが「時を待つ」信仰の姿勢だと、そのように私たちをして受け止めさせるものでもあったからです。そして、そこで意識されたことは、善い行いをすれば見返りがあり、悪いことをすればそれ相当の報いがある、そういうことでしたが、それゆえ、それが私たちの生活を秩序あるものとし、ある一定の成果を上げることにもなったのです。なぜなら、人はこうした秩序を頭の中に持てばこそ、努力を重ねたり安心したりすることができるからです。

 ですから、そういう意味で、今日の旧約聖書の中で語られていることは、とても分かりやすく私たちの信仰を物語るものでもあるのでしょう。そして、そこで語られているのが、ギデオンと神様、神様とイスラエルの人々との特別な関係であり、それを端的に現しているのが、神様が一人称で現れ、直接語りかけ、働きかけておられるということです。いわゆる、「我と汝」と言われている関係性でもありますが、このように、聖書の御言葉が語るところは、神様を信じ信頼する人々には、この神様の直接的な働きかけがその信仰ゆえに許されているということです。そして、このことはまた、御言葉が語るところの「インマヌエル、神、我らと共にいます」ことでもありますが、ですから、神様と自分たちとは一緒というこの感覚を持つことが、私たちの信仰の真骨頂だとも言えるのでしょう。ただし、その一方で御言葉が語るところは、私たちが依って立つ神様を中心とする秩序が揺るがされることがあり、そのような出来事に直面したとき、私たちはじっとしていられないということです。

 戦後、当時の子どもたちが教科書を墨で黒く塗りつぶしたように、8月15日を境に人々の記憶は、白を黒に塗り替えられることとなりました。それは、軍神が軍国主義者とレッテルを貼り替えることであり、英霊と呼ばれた人々が犬死にとの烙印を押されることでもありました。ただ、そうした中でも、人々は生きていかねばなりませんでした。そして、その中で子どもたちが見たものは、大人たちの掌を返すその様でありました。それは、鬼畜米英と言っていた教師たちが民主主義を声高に主張し、かつての体制の落ち度を探し、自らを被害者の立場に置き平安を保とうとするものです。ですから、イエス様の兄弟の勧告は、もしかしたら、それと同じメカニズムが働いていたとも言えるのでしょう。つまり、世間体を気にし、自らの保身のためであったということです。そして、私がイエス様の兄弟たちのことをそのように思うのは、私の中にもそのような弱さ、そういう醜さ、自分だけの保身を願う卑しさ、そういうものを否定し切れずにいるために、自分と近い者を感じるからです。ところで、皆さんはいかがでしょうか。

 「私が、世の行っている業は悪いと証ししているからだ」とイエス様が仰るように、イエス様が向き合ったのは、世の悪、罪でありました。ただ、その向き合い方は、非常に腰の引けた印象を与えます。それゆえ、勇ましいことを言う人たちにはどこか物足りないのでしょうし、また、ものを言う勇気すら持てない弱々しい人々にとっては、頼りなく、信じるに値しないものでもあるのでしょう。ただ、人々のそのような評価には、イエス様への偏見と差別の根が潜んでいるようにも思います。それは、ステレオタイプ化された「神の子」のイメージが人々の中でそのように評価させ、結果、イエス様は十字架へと行き着くことになったからです。ですから、十字架の出来事は、人間の偏見と差別意識の結果だとも言えるのでしょう。けれども、聖書の御言葉は、イエス様の出来事にそのような評価を下しません。それが神様の御心であったと語るのです。そして、この神様の御心が示されたのがここで語られている「その時」というものでもありますが、けれども、「その時」はまだ来てはいないと御言葉は語るのです。そして、それがここで何かに期待する私たちの物足りなさの理由でもあるのでしょう。ところが、私たちが自分の気持ちを置きたいと願う、その中心から大きく外れたところに堂々と立っておられるのがイエス様でもあるのです。それは、そこに私たちがこの時御言葉に聞くべき理由があるからです。

 私たちにとって8月という月は、毎年、大切な気づきを与えてくれる時だと思います。それは、思いを新たにさせられものであり、そのことによって新たな歩みを始めることになるからです。そして、それを約束するものが、この日のイエス様の姿でもありますが、このイエス様の姿に教えられることは、時を待つ姿とはつまり、不都合な過去を都合良く書き換えることでもなく、また、過去のしがらみに縛られることでもないということです。ただただその時を待ち望むことであり、そして、それは徒労に終わるものではないということです。つまり、十字架を経験した私たちにとって、記憶に留めるべきことはこのことであり、まただから、待つこの先の希望を見つめることになるのです。ただし、それは、私たちにとって、辛く苦しいことでもあるのでしょう。答えを求めつつも答えが与えられない、助けを求めつつも誰からも手を差し伸べられない、「その時」を待つということは、そういう自分自身と向き合うことでもあるからです。特に、コロナ禍の今、戦後の混乱期と同じように、イエス様への期待が大きく膨らんだりもするのでしょう。けれども、そのような期待は、構造的には今医療従事者に向けられているものと変わりないとも言えるのでしょう。なぜなら、コロナ禍の今、医療従事者に向けられた世の中の評価が称賛と拒絶とに分かれるように、いつの時代においても、それが、自分というものを中心に置き、そこから外れることを恐れる私たち人間の反応でもあるからです。まただから、自分に都合のいいときには称賛の声を上げ、その反対に都合の悪いときには拒絶する、それを繰り返してきたのが私たち人間であり、そして、それは、これからも変わることはありません。

 しかし、この変わらないところに変わらずに立ち続けているのがイエス様であり、また、そこに立てられたのがイエス様の十字架でもありました。そして、この十字架の上に間違いなく置かれているものが神様の御心でもあるのですが、ただし、そこは、人の目には世界の中心ではなく外れです。人が何かを期待するその思惑の周辺に立っているとしか思えないのが十字架であるからです。けれども、十字架が立っている場所は、人が関わることさえ許されない場所ではありません。そこで明らかにされてきたものが神様の恵みであり、将来の希望であるからです。そして、そこに約束されているものが私たちの自由であり、まただから、十字架の上に立つその自覚が私たちをしてその責任を果たさせることにもなるのです。つまり、それがイエス様に倣うということであり、そして、そこに現されるものが私たちにとっての正しさということです。十字架の上のイエス様が、十字架の前から気に入らないものを誰一人として排除しなかったように、御言葉が語る正しさとはつまり、その対極にあるものの排除によって現されるものではないからです。しかし、それが難しいことは誰の目から見ても明らです。それゆえ、十字架の上に立つことは、判断に迷い、苦しみ続けることでもあるのでしょう。ですから、私にはそれができる、しなければならないと大口を叩くことはできません。その反対にそれはできない、だからやらなくてもいいと、そう言い切ることの方が容易いことだとも思います。しかしながら、そこで鈍感になり、目を塞いで何も考えず、何もしないことがイエス様に倣うということでもありません。倣うということはつまり、十字架の下からイエス様を見上げながら、称賛と拒絶を繰り返すことではなく、十字架の上より十字架の下の世界を見つめ、世界に希望を運ぶことであるからです。

 ですから、そこでものを言うことになるのが、先ほども少し触れた自由と責任です。そして、この自由と責任は、自分自身を笑顔にするためだけに与えられているものではなく、すべての人々を笑顔にするためのものなのです。そして、この自由と責任がこの世界でものを言うのは、私たちが世界の片隅に、その周辺に希望を持って立ち、そこに生きることを止めないからです。ただし、それは、何度も言うようですが簡単なことではありません。安易な気休めやできもしない理想を並べ立てることでもないからです。それゆえ、時に忍耐を強いられることにもなるのですが、そのため、中心から外れていることに我慢ができず、怒りが爆発しそうになることもあるのでしょう。しかし、そこに私たちはイエス様と共にいるのであり、そして、そこに同じように共に生き、共に暮らしているのが私たちの周りにいる人たちでもあるのです。ただ、イエス様の兄弟がイエス様に嫌なことを言っているように、もしかしたら、共にある人々から嫌なことを言われ、心挫かれる思いをしたりすることもあるのでしょう。そして、それが私たち自身であることも多々あるのでしょう。けれども、イエス様を信じることができずにいた兄弟たちがやがてイエス様を信じる者とされたように、イエス様の赦しと救われているという、この喜びと希望に生きるとき、この時の受け入れがたい気持ちはやがて砕かれ、人は御心に適うものへと必ず変えられていくのです。時を待つイエス様がこの日私たちに伝えてくださっていることはそのことであり、つまりは、信じようとして信じられずにイエス様を裏切ることがあっても、私たちが十字架の上にしっかりと立ち続ける時、私たちの将来は間違いなく、主にあって切り開かれていくということです。ですから、8月はそういう意味で私たちの信仰を新たにするときであり、その気づきが与えられるときでもあるのです。祈りましょう。

祈り
いつまでも、そして、どこまでも、私たちと共にある天の父なる神様
 8月のこの日、8月に経験した様々なことを静かに思い起こし、あなたが幼い頃よりこの時までを共に歩んでくださっていることを改めて思い、感謝いたします。ただ、私たちはどうしても世界の中心に自分を置き、そこから世界を作り上げようとする愚かで弱い者であり、そのためにまた、あなたが造られたこの世界と、そこに生きる人々とを深く傷つける者でもあります。しかも、歴史の教訓としてこのことを学びながらも尚、自分を世界の中心に置くことを止めることができず、過ちを繰り返すしかない者でもあります。けれども、あなたは、この私たちの下に御子イエス様をお遣わしくださいました。そして、十字架の上にあるイエス様と共に、この世界と世界に生きる人々との共にある今の暮らしを守り支えてくださっています。神様、どうか、このイエス様の御心と自らとを重ね合わせ、明日を希望の中に迎えられる私たちとさせてください。イエス様の自由を我がこととして、その責任を果たす者となさしめてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。




 

32℃ at 9:00 晴 34℃ at 11:00