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聖霊降臨節第14主日[平和月間]礼拝
  説教 「罪とはすなわち」

                        日本基督教団藤沢教会  2020年8月30日
【旧約聖書】出エジプト記 34章4~9節
 4モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。5主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。6主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、7幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」8モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、9言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」
【新約聖書】ヨハネによる福音書 8章3~11節
3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕


罪とはすなわち
 先の大戦への反省から始まった8月の平和月間も、いよいよ今日、明日を残すだけとなりました。そして、8月の最後の主日、その私たちに与えられた御言葉が今日のそれぞれの御言葉でもありますが、ただ、このそれぞれの御言葉については、皆さんよくご存じのものでもあるのでしょう。先ずその一つ目は、出エジプトの民が神様から十戒を記した石の板を授けられる場面です。そして、もう一つは、十戒で固く戒められている姦通の罪を犯した女性の物語です。そこで、それぞれに共通して語られていることは神様の赦しについてでありますが、それゆえ、神様の赦しについて語るこのそれぞれの御言葉を、私たちはこれまで繰り返し何度も自分のこととして聞いてきたわけです。特に、主イエスと出会ったこの一人の女性の物語は、私たちの多くに慰めを与えるものです。際限のない神様の赦しを物語るものだからです。ただし、だからすべての人々がこの恵みに与れるということではありません。今「多く」のと申しましたように、神様の赦しと慰めに与ることになるのは「すべて」の人ではないからです。また、だから、十戒を授けるこの場面でも、神様は、ご自身について「罰すべきものを罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」とこう仰るのです。

 ただ、この神様の赦しでありますが、原則としては、神様の御前に立つ人々すべてに許されていることであり、そして、それは、主イエスの御前においても同じです。ところが、主イエスの御前に立ちながらも、「すべて」の人々がこれを軽んじるか、拒むか、この恵みの中になかなか入ろうとはしないのです。イエス様を通し示された神様の赦しに苛立ち、憤り、拒む人々がいる一方で、それを望みながらも神様の赦しを自分から遠ざけ、また、離れる人々がいる、つまり、神様の赦しに敷居の高さを感じてしまう人々がいるということです。そして、人々がそう思い、また感じるのは、前者は、自分を正しいと信じて疑わないからであり、それゆえ、主イエスのことを自らの立場を脅かす不埒な奴、つまり、自分たちのことを主イエスの犠牲者、被害者と見なしているために、激しく主イエスを攻撃するのです。そして、後者はというと、自分は正しくない、間違っている、だから、主イエスの御前に立つにはふさわしくない、自分を責め、ダメだというレッテルを貼るか、あるいは、意気消沈し、自分と向き合うことを避けて、また逃げているか、そういう人たちであるということです。

 けれども、今申しましたように、神様の赦しというものは、そもそものところでこの対極にあるそれぞれの人々をこの神様の赦しの中へと導くものです。出エジプト記34章の小見出しに「戒めの再授与」とありますが、神様の赦しの恩恵とは、そもそものところでふさわしくない神の民すべてに与えられたものであり、この神様の求めるふさわしさの中に止まるために与えられたものが十戒の言葉でもあるのです。だから、神様も「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみと真に満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」と語るのです。ところが、神の民イスラエルのその歴史が明らかにするところは、この神様の約束に反するものでもありました。従って、神様の約束に止まることができたのは「すべて」の人々ではなく、つまり、そこからこぼれ落ちる人々が数多くいたということです。まただから、十戒が語るその中に止まることを、御言葉は、繰り返し人々に求め続けてきたわけです。

 ですから、見方を変えるなら、ここで主イエスの御前に立つ人々は、御言葉に聞くなら、一人を除いて真面目に御言葉の上に立とう、立ちたいと願い生きている人々であるのは間違いありません。ところが、神の子である主イエスの御前に立つ多くの人々が、この神様の恵みの時、恵みの場に身を置くことを拒み、また諦め、そこに入ろうとはしないのです。それゆえ、他に行き場のない一人残されたこの姦通の罪を犯した女性だけが、神様の赦しの体験者のように一人主イエスの前に残ることになったのですが、ただ、今申しましたように、主イエスがこの恵みの場へと導いているのは、この大きな罪を犯した女性だけではありません。正義を振りかざし、主イエスを陥れようとするユダヤ教指導者も、そして、この突然の出来事を周囲から眺め、その様子を伺っている人々も、御言葉に従うなら同じようにこの恵みの場へと招かれている人々なのです。けれども、彼らはそれを拒み、また諦めたわけです。

 ただ、それについては分からないことではありません。ここで、この神様の恵み深さをはっきりと示すのが主イエスの後ろ姿でもありますが、それを直ちに理解しろというのは少し無理があるからです。御言葉が「主イエスがかがみ込み指で地面に何かを書き始めた、書き続けた」と繰り返し語る、この二回にわたる主イエスの意味不明の行動の間で、主イエスが立ち上がって「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが、先ず、この女に石を投げなさい」と叫んでいるように、しゃがみ込み、もじもじする主イエスの姿は、緊迫する状況からすると、余りにもその場にそぐわないものだからです。しかも、その叫び声は事を納めるどころか、返って人々をあおり立て、問題を複雑にしているようにも見えます。そして、それにも関わらず、御言葉は、その主イエスの意味不明の行動について二度も繰り返し語るのです。それは、主イエスがそこから動こうとしないことを私たちに印象づけるためでもありますが、つまり、それが私たちがここで聞くべきものであり、見つめるべきものであるということです。

 そこで、改めて主イエスがしゃがみ込んでいる場所を見てみますと、そこで何が見えてくるのでしょうか。そこは、ユダヤ教指導者たちが「この女は」と蔑む女性のすぐ近くです。つまり、その表情も、その仕草もはっきりと捉えることのできる距離にあるということです。そして、それがユダヤ教指導者たちのもくろみでありました。彼らが「この女」と吐き捨てる罪深い女性の顔を主イエスの前に置き、その反応を伺おうとするのは、人を糾弾し、陥れる上での常套手段でもあるからです。それゆえ、主イエスのしゃがみ込む場所からは、姦通の罪を犯した女性の様子だけでなく、ユダヤ教指導者たちの顔も、さらには、主イエスとこの女性を取り囲んでいる大勢の人々の顔も、主イエスがいるところからは、その様子がはっきりと見ることができたのです。それは、人々の怒りに満ちあふれた顔であり、恐怖と諦めと後悔が混ざり合った顔であり、とばっちりを受けないよう距離を取るその迷惑顔でありました。そして、それらの表情、態度は、主イエスの背中を映し鏡として浮かび上がらされたものであり、それが、無意識のうちにその場に現れ出ているということです。けれども、それだけにまた、その主イエスがしゃがみ込み、地面に向かって何かを書いていることが気になります。特に、枝葉末節なことが気になって仕方ない私などは、あれこれと詮索したくもなるのですが、ただ、それについては、主イエスも御言葉も沈黙したままなのです。つまり、ただひたすらに沈黙する主イエスの後ろ姿を見つめよ、ということです。

 そこで、私たちは、主イエスの後ろ姿を通し、今の自分自身の姿、つまり、罪あるその姿を見つめさせられることになるのでしょう。恐らく、それは、自分にとって好ましいものではありません。ただ、先ほども申しましたように、そうであるからこそ、私たちは忘れてはなりません。主イエスを取り囲んでいる人々とはつまり、今日の御言葉によるならば、主イエスを含めて、神様に赦されている人々であるということです。先ほども触れたことではありますが、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみと真に満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」と神様ご自身がこう語るように、赦されることのない背き、その罪にも関わらず、幾千代にもわたって、主にあって赦されているのがこの場にいる人々、つまり、それが私たちであるということです。ところが、赦されているにも関わらず、神様の赦しから遠いところに置かれているような表情を浮かべてしまうのはどうしてなのでしょうか。

 主イエスの一挙手一投足を見つめる人々にとって、その目に映し出される主イエスの後ろ姿は、神様の救いの出来事を現すものではありません。救いようもないこの世の現実でしかなく、まただから、主イエスの前を一人去り、二人去り、そして、最後にこの救いようもない大きな罪を犯したこの女性だけが残されることになったのです。そして、それは同時に、彼らが見つめたこの世の救いようもない現実そのものであり、ただ、救われた者がこの救いようもない罪を犯した女性一人だけであるとしたら、自称善良な人々にとっては悪い冗談としか思えないことでしょう。しかも、主イエスの後ろ姿がもたらしたことが、結果、それ以外のすべての人々をその御前から追い出すわけですから、なおのことです。そして、主イエスの後ろ姿の中に己の罪を見つめるというのは、まさにそういうことだとも思うのです。しかし、そうであるからこそまた御言葉は語るのです。主イエスの出来事は、世界とそこに生きる私たちとが、救いようもないこの世の現実にあって、なお私たちは救われていると、御言葉はそう私たちに語り、そして、そのことを明らかにしてくれているのがこの主イエスの後ろ姿でもあるのです。

 主イエスがここで「この女に石を投げなさい」と語るように、罪は罪としてそのまま残されるものなのです。姦淫が罪として十戒で固く戒められているように、それゆえ、ユダヤ教指導者も「こういう女は石で打ち殺せ」と語るのです。しかも、この女性はその現場を押さえられたわけですからなおさらのことです。それゆえ、主イエスも律法の戒めに従って、彼らと同じように石を投げよと命じたわけですが、けれども、それには、一つの条件が付けられていました。それが、罪を一度も犯したことがない者ということでもありました。するとどうでしょう。主イエスの言葉を受けて、一人去り、二人去り、とうとうユダヤ教指導者たちすらその場を立ち去ることになったのです。このように罪から離れ生きえないのがこの世に生きる私たちでもありますが、このことはつまり、立ち去った人々とは、罪深い自分に躓いたか、あるいは、罪深い自分自身を映す主イエスに躓いたか、そういうことでもあるのでしょう。ですから、罪人が罪人を裁くというのは、イエス様からしたら笑止千万、片腹痛いことでもあったでしょう。まただから、主イエスの言葉を聞き、人々は、その場を立ち去るしかなかったのです。

 ただ、主イエスに躓き、その御前を立ち去る人々の後ろ姿に見ることができるのは、もちろん、すべてではありませんが、恐らく、その多くは、罪を悔い改め、新たに生き始めようとする気概に満ちたものではありませんでした。そのため、主イエス以外の何ものかを求めて、その場を立ち去ったことでしょう。その時一瞬の後悔はあっても、その場を立ち去った者は、もっと気の利いた、もっと分かりやすい、もっと役に立つものを探し出そうとしたことでしょう。そして、このことはつまり、自分の役に立つものを神とし、その神を崇めるということでもありますが、ただ、それは、この時、初めて起こったことではありません。十戒を記した石の板を授けられるまさにその時、神に見捨てられ焦った神の民イスラエルがそこで何をしたのか、それは、自分たちを力強く導くであろう金の子牛の像を作ることでありました。このように神様から離れようとする私たち人間の衝動は、古くて新しい、根深い問題でもあるのです。ですから、今日のそれぞれの御言葉は、神様に赦され、救われた私たち人間の現実を現す一方で、神様の御前から遠ざかるしかない、もう一方の人間の現実を現しているとも言えるのでしょう。そして、このことはつまり、語られた神の言葉と私たちの実際とがかみ合っていないということでもありますが、まただから、ユダヤ教指導者たちのような振る舞いをなす者が社会の中で幅を利かすことにもなるのでしょう。それは、人々が自分の納得の行く、分かりやすい権威を望んでいるからです。

 ですから、主イエスの後ろ姿を見つめる人々の、その心の中にあるものは、かつてイスラエルが金の子牛を作ったものと同じです。金の子牛を作らずとも、金の子牛を作り崇めることと変わりないからです。それゆえ、彼らは自分の心に問い、自分の頭で考えようとはしません。つまり、判断停止の状態に陥っているのが、主イエスに躓いた人たちであるということです。その場を立ち去ったことが何よりそのことを物語っているようにも思うからです。ですから、そういう意味で、多くの人々が手にしたいと願う信仰とはそういう独り歩きしてくれるものでもあるのでしょう。だから、絶対の正しさを求め、その一方で、外からの正しさに生理的嫌悪感を持つのです。けれども、主イエスの後ろ姿が示すものはそういうものに一切取り合わないということです。まただから、人々はこの主イエスに躓くしかないのですが、それは、盲信と卑屈さ、傲慢の間でじっと動かず、その背中を見せ続けておられるのが私たちの主イエスでもあるからです。

 そこで、もう一度、主イエスがいますところを見てみると大切なことが見えてきます。そこは、この一人の女性が犯したその罪ゆえにいつ石が飛んできてもおかしくない場所です。主イエスはそこにじっとしゃがみ込んでおられるのですが、ただ、それは、提示された問題を力尽くで解決しようとする迫力に欠けるものでもありました。それゆえ、私たちの多くは主イエスに躓くことになるのです。しかし、そこで罪が罪として残されたままであるなら、そこで皆さんは何を期待するのでしょうか。主イエスは最後のところで、この一人の女性に向かって「私もあなたを罪に定めない」と語るのですが、それは、罪が帳消しになり、生まれたての赤ん坊のように汚れなきものとなったということではありません。他の人々が立ち去ったその後で、それでも私はあなたと一緒にいるとの主イエスの告白であり、約束です。ですから、その後に語られている「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」というこのお言葉は、またやるかもしれないけど、気をつけてね、といった安易なものではありません。主の御前から外れようとするとき、私たちの目には神様もイエス様も映されてはいません。自分の思いに流され、また、潰されそうになる、その時の私たちとはそういうものだからです。けれども、そこに主イエスは私たちと一緒にいてくださっている。その思いの中に私たちを招き、共に傷つくことさえ厭わない、それがイエス様であり、しゃがみ込みむイエス様のその後ろ姿は、このことを明らかにしてくれているのです。つまり、それが私たちに向けられたそのような主イエスの深い思いであり、ですから、それを愛と呼ばずして何と呼べばいいのかと思うのです。

 私たちのすべては罪人です。それゆえ、主イエスの後ろ姿からその罪を知らされることになります。しかし、そこで見つめる各々の罪は、主イエスにあっては赦され、主イエスが共に担ってくださっているものでもあるのです。ですから、私たちにとって罪とはすなわち、主イエスを知ることであり、知ったがゆえに神様の赦しに与っているということです。そこで、罪を罪として誤魔化さずに見つめればこそ、私たちには罪の赦しの扉が開かれることになるからです。そして、そこで私たちに与えられているものが主の平安であり、この平安に与ればこそ、私たちは、感謝の内に与えられたその命を歩むことができるのです。ですから、どんな時にも、主の平安にある自らであることを忘れず、日々喜びの中に過ごす私たちでありたいと思います。

祈り
貴き主イエス・キリストの父なる御神様
 平和を覚え過ごして参りましたこの一月、この最後の主日に、主イエスの後ろ姿を通してあなたの御心に聞くことが許され感謝します。己が罪におののくしかない弱い私たちでありますが、その罪をも御子イエスは共に担ってくださり、あなたとの交わりの中に置いてくださろうとしておられます。どうか、この恵みの場に置かれ、あなたの命に生きる豊かさを日々忘れることがないよう、聖霊の導きをもって、私たちを支えお守りください。特に、このコロナ禍にあってあなたの御心を慕い求めるすべて人々を特別に顧みてください。貴き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


  



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