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聖霊降臨節第15主日礼拝 説教 「灯を高く掲げよ」
                        日本基督教団藤沢教会  2020年9月6日
【旧約聖書】出エジプト記 13章17~22節
 17さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。18神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。19モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。20一行はスコトから旅立って、荒れ野の端のエタムに宿営した。21主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。22昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 8章12~20節
 12イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」13それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」14イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。15あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。16しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。17あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。18わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」19彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」20イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。


灯を高く掲げよ
 日本キリスト教団の行事暦に定められているわけではありませんが、9月第一主日を振起日と呼び、礼拝を献げる教会があります。その始まりは、アメリカの教会学校の活動に遡るもので、また、それを始めた理由は、夏休みを思い思いに過ごした子どもたちを再び教会に招くためでありました。それゆえ、英語では、homecoming sunday,または、rally dayなどと呼んでいるそうです。ですから、その意味合いは、招くことに加えて、信仰を奮い起こし、心機一転、信仰の日々を歩もうということでもあるのでしょう。ただ、これからクリスマスにかけての数ヶ月を思えば、そのような呼びかけは、子どもたちだけに限ったことではありません。多くの人々を迎え入れるこれからの数ヶ月間は、私たちに新たな出会いを約束するものであり、それゆえ、私たち大人も、心を奮い起こし、あるいは、奮い立たせ、伝道の秋に備える必要があるのでしょう。

 しかし、伝道とは、そのように自らを叱咤激励し、あるいは、鼓舞してなされるものなのでしょうか。もちろん、だから寝ていていいということではありませんが、ただ、この日の御言葉に聞いていくなら、クリスマスまでのこれからの歩みは、もう少し緩やかなもののように思えるのです。なぜなら、神様を知り、イエス様を知ることは、私たちと生涯を共にしてくださる方が神様であり、イエス様である、このことを知ることであるからです。ですから、そうである以上、知っているとか知らないとか、あるいは、知らなければならない、知るべきだとか、そういう肩に力が入ったものではないと思います。一緒にいれば、必ず知らされる、つまり、私たちの信仰の歩みとは、そういう、いい意味での脱力系であるということです。ですから、この日の御言葉にある、私たちが好んで使う「雲の柱、火の柱」のモチーフは、まさに私たちのそのような信仰を言い表していると言えるのでしょうし、また、冒頭の「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」というイエス様の言葉も、まさにそういうイエス様と共にある私たち自身の経験が語られているようにも思うのです。

 従って、伝道とはつまり、そういう私たちの姿を内側から人に見てもらい、また知ってもらうことであり、不必要に自分の考えを押しつけることでもなく、また、必要以上に相手に合わせすぎるものでもないということです。自分というものが先に出過ぎるのではなく、一歩下がったところで神様とイエス様に前に立っていただき、そこで素のままの私たちを見てもらう、そこから始まっていくものだということです。ですから、hospitality、いわゆる、「お・も・て・な・し」と言われていることが、教会の日常から出て来たというのは肯けます。ただし、もてなすだけで神への奉仕の視点を欠いたところに、信仰が芽生えることもありません。礼拝が私たちに向けられた神様の奉仕の業であるように、神様の息づかいを間近に感じられるところでしか、信仰が実を結ぶこともないからです。ですから、そのためにも私たちは、自分がどこに立ち、どこに生きているかを見失ってはなりません。軸足が定まった、地に足着いた信仰が私たちに求められるのはそのためであり、それは、いかなる信仰もそうだと思いますが、信仰とはその人の生き方そのものでもあるわけですから、浮き足立ち、軸足も定まらないものを人が信仰と呼ぶことはないからです。

 従って、今日のみ言葉に聞いていくなら、振起日とはつまり、私たちがその生涯を過ごす教会へと立ち帰り、自分自身を振り返り、見つめ直す日、軸足を置く場所はここだということを確かめる日、そして、クリスマスに向かうこれからの歩みは、この前提に基づいてなされるべきもの、そういうものだということです。ただ、それは私たちにとっては当たり前のことであり、それゆえ、敢えて言葉にする必要もないのでしょう。しかし、敢えてそれを言葉にして確かめる必要があるのはどうしてなのか、それは、私たちが忘れっぽいからです。そのため、忘れっぽい人には、緊張感をもって、覚えてもらう必要があるのでしょうが、しかし、忘れっぽい人にどうし忘れてばかりいるんだと、力を込めて語ったところで、忘れっぽい人が突然人が変わったようになることもありません。大切なことは、その人を自分色に染め上げることではなく、伝え続けることです。そして、それがその人と一緒にいるということでもあるからです。そして、主イエスがここで私たちに何かを語るのは、主イエスご自身がまさにそれを実践しているからでもありますが、忘れっぽい人に私たちが大切な何かを伝え続けなければならないのは、主と共に歩む私たちのそうした暮らしぶりが、今日の御言葉を見ても明らかなように、穏やかさを基調としているわけではないからです。

 出エジプト記に記されているように、そこには戦いがあり、試練があります。そして、この歩みの中にいるのは、今を共にする人々だけではなく、召された者、つまり、私たちの先祖たちも含まれています。このように、信仰とは、今生きている者の価値観だけが幅を利かせるものではなく、そういう意味で、保守的なものなのです。しかし、その一方で、御言葉が明らかにすることは、昔の言い伝えに過ぎないものを金科玉条のごとく崇め立てるものでもないということです。無理矢理信じ込ませて、体裁だけを整えさえすればそれでいいということではなく、出エジプトの出来事、バビロン捕囚、そして、主イエスの出来事と、私たちにとっての大切な出来事がそれまでの経験をはるかに凌ぐ未経験な出来事であるように、新しさに直面し、穏やかならぬ心境を経験すればこそ、そこでまた新たにされていくのが私たちの信仰の歩みでもあるのです。そして、この歩みを忘れっぽい人とも、すでに召された人々とも、一緒に続けるのが私たちなのですが、それだけにまた大変であるということです。ただ、創世記を読んで思うことは、御言葉が語らんとしている家族とは、そもそものところでそういうものだということですし、そして、それは私たちの足下を見てもそういうことだと思うのです。

 幼稚園が再開し、十日余りが経ちましたが、休み明けにお母さんたちがいつも口にすることは、休み中の大変さと再開したことの喜びです。けれども、子育ての大変さを口々に語りながらも、お母さんたちは本当に楽しそうですし、嬉しそうなのです。そして、お母さん方が朝の短い時間にそんな話を私にしてくれるのは、園長はじめ、職員たちが本当にいい働きをしてくれているからです。つまり、朝だけの私のような者に調子よく話を合わせてくれているのは、職員たちが親たちからも子どもたちからも信頼されているからであり、この基本的なことが親御さんたちの中でしっかりと収まっているからです。それこそ、お母さん方が笑いながら愚痴や文句、その他のネガティブな感情を素直に現すことができるのは、職員を介して幼稚園、教会との関係性に本当に心から安心することができているからで、つまり、この信頼を得るため、私たちの目に見えないところで努力し、頑張ってくれているのが幼稚園の職員たちであるということです。

 このことはつまり、職員も、子どももそのご家族も、私たちにとっては単なる隣人ではなく、神の家族の一員であるということです。兄弟姉妹の一人であり、神の国での再会を祈り願う、大切な家族の一人一人であるということです。そして、それは、ここで主イエスが「私は誰も裁かない」と仰っていることからもそう理解することができます。少なくとも私たちの下に主イエスが送り出される人々が、蚊帳の外に置かれることはないからです。従って、牧師にとって彼ら彼女らはお客さんではなく、牧会の対象であり、皆さん一人一人と同じ距離感をもって接すべき人たちであるということです。ですから、私たちが間違ってもしてはならないことは、彼ら彼女たちのことを自分たちが考え、また願う目的達成のための手段とはしないということです。私たちがこうして「家族」と神様とイエス様から言われている以上、そこに集う全員が、喜び、祈り、感謝する日々を互いに過ごせるよう、それゆえにまた互いに努めなければならないのです。そして、それが私たちに求められるのは、それが私たちの目指すところでもあるからです。ただし、それだけにまた大変なことも多くなってくるということです。

 ですから、そうである以上、現実に目を曇らせ、あるいは、理想に目を眩ませ、判断停止の状況に陥ることだけは避けなければなりません。15節、16節で主イエスが用いている「裁き」とあるこの言葉が「分ける、判断する」という意味で用いられるように、「肉に従って」ではなく、イエス様と同じ視点から物事を判断したいと思うのです。そして、そのために私たちに求められていることが、聖書の御言葉と教会の伝統に則して適切に判断し、その都度、適正に対処するということです。それは、私たちが願う、喜び、祈り、感謝の日々がそこに約束されているからでもありますが、ただし、私たちがそうするのは、変化をもたらす新しい出来事に不必要に恐れおののくからではありません。神様とイエス様に過剰な期待を寄せるのでもなく、その反対に、期待に反したからといって不信感、嫌悪感を募らせるのでもなく、主と共にこの変わらぬ日常を歩み続けるのが私たちだからです。

 ただ、今日の御言葉にもあるように、そのことを家族として受け継いでいるのが私たちでもあるのです。このことはつまり、教会という枠組みの中で常に物事を考え、行動することが私たちには求められているということです。けれども、そこで共有されるべき事柄は、すべての者にとって同じように経験されているわけではありません。すでに経験した者と、そうでない者とが私たちの中にいるわけで、さらには、その中でも、忘れっぽい人とそうでない人とがいるわけです。このように、個人的レベルにおいては、すべてが皆同じではなく、つまり、この同じではないというところから生じる様々な問題と向き合い、その対処を求められているのが私たちであるということです。

 例えば、戦争についてはどうでしょう。私たちの多くにとって戦争は未経験なことであり、それゆえ、万が一、そのような新たな事態に直面したら、私たちの多くは、この新たな事態に困惑することでしょう。けれども、その一方で信仰者としてそのことへの適切な対処を求められもするのです。ですから、経験者はそのために適切に何かを伝えなければなりません。また、卑近な例を挙げれば、学校の受験などは、大人にとっては通り過ぎたものであっても、子どもたちにとっては、新しい試練の時でもあるのです。さらに言えば、振起日のこの日、一昨日あたりからメディアでも繰り返し取り上げられていることは災害の危険性の高まりです。ただ、今回のスーパー台風と呼ばれているものは、関東地方を直撃することがないために、私たちはこうして礼拝を共に献げることが許されているわけです。しかし、九州、沖縄地方の方々は、恐らくそれどころではないのでしょう。ただ、私たちがかつて繰り返し耳にしてきたことは、槍が降ろうが何が降ろうが礼拝は休むものではないということでした。しかし、本当に槍が降るような事態に直面したとして、玉砕覚悟で軍刀を振り上げ突進することが果たして私たちに求められていることなのでしょうか。特に、何十年に一度、何百年に一度と言われる未曾有の災害が度々繰り返されている昨今、過去の成功体験に根ざすだけでは、難局を乗り越えることは難しいことでもあるのでしょう。このように、日々、共に生きる中で様々問われているのが私たちでもありますが、その中で私たちが何を伝え、また、何をなせばいいのでしょうか。

 そういう意味で、18節の「私は自分について証しをしており、」私をお遣わしになった父も私について証しをしてくださる」との主イエスのお言葉にもあるように、私たちは語るべき言葉を持たなければなりません。ただし、そこで私たちが持つべきものは、信仰の正統性、その優位性だけを主張することではありません。私たちにとっての「証し」とは、神様の愛を現すことであり、つまりは、主イエス・キリストに倣い、主の御心を現す以外の何ものでもないということです。そして、この愛というものですが、それは、私たちを信仰という枠組み、家族という枠組みに縛り上げるための耳障りのいい言葉ではありません。徹頭徹尾、御心のままに従ったのが人の子となられた、私たちの主イエス・キリストあるように、私たちの信仰も、また、そこで現され、証しされる神様の愛も、それが単なるお飾り、スローガンではないように、そのような厳しさの中にあって初めて大きな意味を持つことになるのです。しかし、それを私たちが厳しいと感じてしまうのは、御心が求めるものに対して、完全に応え得ないことを私たちが知っているからです。それゆえ、私たちが導き出すあらゆる信仰的決断、判断といったものは、常に不十分で不完全なものだと言えるのでしょう。ですから、私たちが忘れっぽいのは、それゆえのことだと思います。つまり、無意識のうちにそれを避けているということです。ただ、私たちの多くは、そのことの恥ずかしさについてはよく弁えているように思います。それゆえ、私たちにこうして与えられている信仰は、恥を知るがゆえに、恥知らずなものになることはない、そういうことでもあるのでしょう。

 しかし、恥を知りつつ、しかも、恥の上に恥を塗り重ねつつも、それでもなおかつ歩み続けるということは、私たちの自信を削ぎ、また、削がれるがゆえに神様への不信感を募らせるものでもあるのでしょう。それゆえ、それを続けることはとても苦しいことです。しかも、自分でもできないことを人に対し言葉にしていかねばならないとしたら、その苦しさはなおのことです。ですから、そこに喜びを見出すことができる者は、よほどの厚顔無恥か、あるいは、相当に胆力のある者か、いずれにしても、並外れた力をもっている者だけということにもなるのでしょう。それゆえ、多くの者は、そういう自分自身に躓くか、あるいは、神様、イエス様を信じることに躓くか、いずれにせよ、救いを求めながらも、救われない状況に自分自身を追いやることにもなるのでしょう。けれども、この苦しさを味合わないですませる方法が一つあります。それは、不都合な事実、不都合と思える事実にすべて目をつぶることです。そして、それが、ここで主イエスへの不信感をあらわにしているファリサイ派の人々でもあるのでしょう。ですから、そういう彼らの言動はそれゆえの恥ずかしさを知らないと言えるのでしょう。けれども、彼らの語るところは、恥を知らぬがゆえにまた力強く、それゆえ、ある種の説得力を持つことにもなるのでしょう。彼らの主張に耳を傾けることは、少なくとも、神様とイエス様を信じることではしごを外されることはないからです。しかし、そこで御言葉が求めることは、私たちにそのはしごを登ることです。信じること、愛することの真実は、はしごを登ればこそ、そこで初めて見える景色であり、私たちに与えられた言葉は、すべてそこで与えられるものだからです。

 ですから、言葉を持つということは、私たちにとってそれは、イエス様が登ったはしごを登るということです。ただ、そこで私たちは、それが途中で折れやしないか、自分が落ちやしないかと、気にかかり、なかなかその一歩を踏み出すことができないのです。そのため、肉に従い、肉にひきづられ、大丈夫だと仰るイエス様の言葉ではなく、自分を納得させてくれる、自分の言い訳を聞いてくれるものに心なびかせることにもなるのです。そのため、堂々巡りを繰り返すことにもなるのですが、ですから、ここでイエス様が、私が、私がと循環論法に落ちいているかに見えるのは、そういう私たちに付き合ってくれているからでもあるのでしょう。つまり、私たちより一足早くはしごを登ってくださっているのが私たちの主イエス様であるということです。

 それゆえ、先にはしごを登っているのがイエス様でもあるわけですから、はしごに手をかけて、私たちは一歩を踏み出さなければなりません。ただし、それは、私たちの期待を裏切らないということではありません。一段上がるということは、自分が見えなかった部分が見えてくるということでもあるからです。けれども、だからこそそこで私たちは忘れてはなりません。そこで見えるものは、自分が見たいから、見たくないから見えているものではなく、それもまた主イエスが見ている景色であるということです。ですから、もし私たちの信仰が揺るぎないものであるとしたら、それは、主イエスと見ているものが一致しているからです。そのためにまた、主イエスは、はしごを登ることを私たちに求めるのです。ですから、冒頭の「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」という主イエスの言葉は、私たちに主イエスの見つめる景色を見て欲しいとの思いからのものです。それゆえ、「命の光を持つ」ということは、高邁な、一分の隙もない理屈を作り上げることではありません。自分がどこにいるかと職員たちに訪ねられたとき、幼稚園の子どもたちが、「ここです、ここです、ここにいます」と大声で応えるように、私たちに求められていることはそれと同じです。「ここです、ここです、ここにいます」と、神様の問いかけに対して、大きな声で応えることであり、つまり、そこで与えられるものがその都度私たちの語るべき言葉だということです。イエス様と共に神様の御心に素直に応えることのできる私たちでありたちと思います。

天のお父様
 あなたの御名を崇めます。あなたの声に素直に声を出し、応える私たちとさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。


  



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