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聖霊降臨節第16主日 高齢祝福礼拝 説教 「御言葉にとどまる」

                        日本基督教団藤沢教会  2020年9月13日
【旧約聖書】エレミヤ書 28章13~17節
 13「行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。14イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた。」
 15更に、預言者エレミヤは、預言者ハナンヤに言った。
 「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。16それゆえ、主はこう言われる。『わたしはお前を地の面から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ。」
 17預言者ハナンヤは、その年の七月に死んだ。

【新約聖書】ヨハネによる福音書 8章31~38節
 31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。38わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」


御言葉にとどまる
 聖霊降臨節第16主日を迎えました。教会の歩みも残すところあと二月余りとなりましたが、ただ、この半年余りは、コロナに振り回され、落ち着かない毎日でもありました。恐らく、それは、今年一年で終わるものではないのでしょう。それゆえ、引き続き、気を引き締めて毎日を過ごさなければならないのですが、ただ、そうした中で、何かを語ることが求められているのが私たちです。そこで私たちが何かを語りうるとしたら、それは借りてきた人の言葉ではありません。それは、聖書の御言葉に基づいた私たちの経験則であり、そして、経験則とはすなわち、「法則としての因果的必然性がまだ明らかになっておらず,経験上そう言えるというだけの規則」と辞書にもありますように、つまりは、経験に基づき、根拠のない自信を持って具体的に何かを語るということです。

 そこで、自信をもって、と言われると、それだけで腰が引けてしまうのでしょうが、けれども、それが私たちの信仰です。しかも、それは、曖昧に、ではなく、具体的に、ということです。あふれ出る私たちの神様とイエス様への思いを、自らの経験として語りうるのが主の教会に生きる私たちだからです。ただ、私たちのそうした姿を見て、人はいぶかしく思うこともあるのでしょう。けれども、信仰が私たちを生かし、また、人をも生かすものである以上、私たちは自らの経験則に則って、堂々と根拠のない自信を明らかにしたいと思うのです。なぜなら、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とのイエス様の言葉が、まさにそのことを私たちに教えてくれているからです。ただし、その場合の根拠のない自信とは、厚顔無恥に、ということではありません。人の納得を得られないがゆえに、人から誹られることもあるのでしょうが、けれども、根拠のない自信をもって、私たちが堂々と自らの経験則を語りうるなら、神の国の真実が、この世の現実のただ中でが浮かび上がることにもなるのです。そして、それは、私たちがイエス様と同じように神様が造られたこの世界の真実な姿を知っているからです。ですから、そのためにも長く続けるということは大切なことです。特に、今日は、高齢祝福礼拝です。週報には、その案内として「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」という箴言の知恵の言葉を記しましたが、長く続ければ続けるほどその人を通して現されるものが神の知恵であり、それゆえ、主の恵みはこの世に満ちあふれることにもなるのです。

 ただ、今年は、コロナ禍ゆえに、少し趣を異にしています。子どもたちと一緒の礼拝が許されず、また、礼拝も二部制で実施しているために全員が一堂に会してというわけには参りません。しかし、高齢祝福合同礼拝において私が申し上げていることは毎年同じです。それは、私たち大人は子どもたちに伝えるべきことがあり、そのための言葉を持っているということです。そして、伝えるべきこととはつまり、信仰によって生かされてきた私たちの姿であり、また、言葉を持っているということはつまり、私たちにはそのために信仰が与えられているということです。そして、そう言えるのは、私たちには、信仰によって支えられ生きてきたという強い自負があるからです。そして、それはある特別な人だけではなく、私たちすべてに許されていることであり、つまりは、それがここで主イエスが仰る主の弟子であるということです。それゆえ、弟子たる私たちが人に何かを伝えるということは、一つの拘りが現されることにもなるのでしょう。けれども、そこで言い表されることは、エゴに満ちあふれた自分自身ではありません。与えられ、生かされ、導かれてきたことへの拘りであり、つまりは、神様とイエス様への感謝と喜びです。私たちの嬉しいという気持ち、ありがたいという思うその思い、神様とイエス様に受け入れていただいているというこのポジティブな思い、私たちが何かを伝えるということは、これらの思いを具体的に言葉にするわけですから、それが拘りもって現されるということです。特に、この日、私たちがこのことを覚えたいのは、この日の御言葉が高齢祝福礼拝を守る私たちにそのように語りかけてくれてもいるからです。

 ただ、それは易々となされることではありません。人に何かを伝えるということは、技術的なこともさることながら、それぞれに与えられている賜物の違いも大きいでしょうし、何より伝えたいとの思いは人それぞれ同じではないからです。けれども、それは、あの人にできて、この人にできないということではありません。誰でもできることであり、ただし、それは、やってやれないことはないということではありません。できるかできないかへの拘りが私たちをしてそうさせるのではなく、神様とイエス様を信じればこそ、その姿が自ずと私たちをして人に伝わるということです。まただから、信仰は私たちの一つの拘りの現れだと申し上げたのですが、ただし、ここでのイエス様がそうであるように、その拘りが直ちに伝えるべきその相手に伝わるわけではありません。たとえ、その人にそのつもりがなかったとしても、端から見れば、その人の拘りはその人のものでしかないからです。ですから、そのようなとき、人の心に残るものは伝えるべきその中身ではなく、その人の気持ちの強さです。そして、それが時に反発となって自分に帰ってくるのは、人が押しつけがましいと感じるからです。つまり、自分の領域を侵されたとの無意識の思いが人をしてそのように振る舞わせるということです。ですから、伝わらないのは、単に相手だけの問題ではありません。拘りを持つがゆえに、自分の思いだけに溺れることが多いからです。しかし、ここでのイエス様は、もちろん自分の思いに溺れているわけではありません。「はっきり言っておく。つまり、アーメン、アーメン、私は言う」というこのヨハネのこの定型句にも現されているように、イエス様のここでの発言は、相手のことも自分のこともしっかりと理解した上でのことなのです。まただから、その直後に、「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」と、イエス様が伝えんとしている神の国の奥義を惜しげなく明らかにしているわけです。

 けれども、たとえそうであっても、人々はここでのイエス様の発言に明らかに不快感を示しています。それは、今申しましたように、ここでのイエス様の態度が人々をしてそのように誤解させたからです。しかも、皮肉なことにその誤解の原因は、ユダヤの人々がイエス様を信じたから、つまり、「この方なら」との彼らの期待をイエス様が裏切ったからです。そして、そう言えるのは、イエス様の「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とのこの発言を受けて、彼らが「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません」と反発しているように、その自由という言葉は、彼らにとっては奴隷解放を意味するものであり、その彼らに向かって、彼らと同じ出自にあるイエス様がそう言ったわけですから、彼らとしては、イエス様が自分たちのことを奴隷だと思っていると、少なくとも彼らにはそう感じさせたということです。しかし、この彼らの反発の強さの中には、また彼らが抱いた一つの大きな拘りを見ることができます。ですから、信仰を伝えるということが私たちなりの一つの拘りの現れであると先ほど申しましたように、私たちの目の前に起きていることは、それゆえのぶつかり合いであるということです。ただ、それを見ている私たちは、もちろん、イエス様と同じ拘り、同じ視点をもってここでの出来事を見つめているということです。しかし、そう思うのは私たちだけなのでしょうか。イエス様のことを信じた、少し前までのユダヤの人々はどうだったのか。彼らと私たちが違うというなら、一体何が違うのでしょうか。

 ここでのことは、学者によれば、ヨハネの共同体、つまり、初代教会において、イエス様を信じるがゆえの対立があり、そのためにまた、主の教会は分裂の危機に曝されていたということです。そして、その根底にあったのが人それぞれの拘りでもありますが、イエス様が彼らの語った奴隷という言葉を引き受け、それを罪の問題と重ね合わせるように、拘りとはすなわち罪の現れであり、そして、それが私たちであるということです。そして、それは、自分の胸に手を当ててみればよく分かることです。私たちが自分への拘りから正しさを主張し、結果、人を傷つけ、自分をも傷つけることがあるように、様々なの拘りを未だ捨てきれず、罪ある状態にいるのが私たちなのです。ただし、イエス様は、だから拘りを捨てよと言っているわけではありません。結果、深い傷を負ったのがイエス様であり、それゆえにまた、その罪が明らかにされ、未だそのことを引きずっているのが私たち人間でもありますが、それが私たちの置かれた現実である以上、捨てる捨てない以前に、先ずは、拘りを捨てきれずにいる自分自身と向き合わなければならないということです。では、その中で信仰者である私たちは何を大事に思い、何に拘る者なのでしょうか。つまり、問題は、そうした中で拘わるべきは何かということであり、それを知った上で、その拘りを私たちはどのように表現すればいいのかということです。

 それが、イエス様の弟子であるということであり、そのために私たちはイエス様の言葉の内に止まる必要があるのです。それはまた、御言葉に止まればこそ知らされる神の国の奥義、つまり、神様の御心を知るからです。だから、それを知った私たちは、わだかまりや思い患いを捨て、まさにイエス様と同じように自由に自分自身を現すことができるのです。ですから、この自由こそが私たちが身につけるべきものであり、信仰の喜びとその感謝を言い表すというのはまさにこの自由に与ればこそのものであるということです。けれども、それは、私が今申しましたことをオウム返しに何かものをいうということではありません。心込めて、自分の気持ちを形に現すことであり、では、それは具体的にはどういうことになるのでしょうか。

 あれもしてはならない、これもしてもならない、これをしなさい、あれもしなさいと、いろいろなことを御言葉は語ります。それゆえ、私たちの多くは、それを守ることが言葉に止まることだと考えます。けれども、そこで多くの人々が感じることは自由ではなく窮屈さです。そして、それはパウロの手紙を読んでも明らかなことですが、それは、私たちが自分自身の拘りを捨て去ることができないからです。ですから、そのためにまた、主の教会の中にあって様々な矛盾が生じることにもなるのですが、それは昔話ではなく、今でもそうです。眉をひそめたくなるような出来事が今もあり、しかも、私たちの誰もが罪人であることを完全に否定できないわけですから、そういう意味で、罪の大小の違いは問題ではありません。ですから、主の教会の中で様々な矛盾がはびこったとしても、それはそれで仕方ないことなのかもしれません。そこには明確な理由があるからです。けれども、それがまた一つの大きな問題を生じさせることになります。それは、あれもするな、これもするな、こうしろああしろと自ら語るイエス様が問題を解決に向かって何も動こうとはしないということです。そのため、教会にはいつも喜び楽しむことのできる人々がいる一方で、苦しみ、悲しむ者がいることとなります。信じていると強く思える者と、どっちでもいいやと思う者が一緒にいるのです。つまり、信仰的に誠実な者も不誠実な者も一緒にいるのが主の教会だということですが、それゆえにまた、問題は深刻です。

 そのため、そこで私たちが先ずすることは御言葉の学びです。ここにはこう書いてある、あそこではこう語られている、だからこうすることがふさわしいと、互いに確かめ合うことでもあるのでしょう。秩序を守るためにはそれが必要であり、もし明確な答えを打ち出すことができなければ、教会は壊れてしまいかねないからです。ヨハネの教会も、恐らくはそうした危機の中にあったのでしょう。しかし、そこでイエス様が仰ることは、そうならないための具体的な方法論ではありません。確かに形の上でそういうことを言っているのですが、けれども、それはいわゆるこうしろああしろという類いのものではありません。もっと本質的な事柄、私たちが忘れてはならない根源的な事柄を語るだけなのです。それは、御言葉に止まるということが、様々語られている戒めを守りさえすればいいという、そのような性質のものではないからです。なぜなら、もし私たちが何かを解決すべく何かを語ろうとするなら、私たちと神様、イエス様と私たちとがどういう関わりにあるかということをはっきりと認識するところからしか何も始まることはないからです。だから、イエス様は「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。奴隷はいつまでも家に居るわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と仰ったのです。つまり、どうであれイエス様は私たちと一緒にあるということです。ところが、信じたと言われている人々には、それが分からなかったのです。

 御言葉に止まるということは、ここでイエス様が「子はいつまでもいる」とはっきりとこう仰るように、この関係性にすでに生きているのが私たちであるということです。そして、それは、対立が高まり、分裂の危機にあってなお約束されていることです。従って、弟子であるということは、希望がないと人が思う中で、なお、希望を見つめ、希望があると、そう言葉にできるということです。ただ、このことは自分の足下だけを見ているだけでは分かりません。十字架を見上げ、主イエスと同じようにそこに立つことでしか分からないものなのです。そして、それがこうして御言葉に聞いている私たちでもあるのですが、ただし、このことを私たちが理解するのは、私たちに絶対の確信があるからではありません。エレミヤ書にあるように、揺るぎないものを与えられながらも、どちらが正しく、どちらが間違っているか分からないことが実際には多いからです。そのため、十字架の足下には矛盾がはびこることにもなるのですが、けれども、そこで分かりやすい、誰もが納得するであろう答えを求めてはなりません。イエス様がここで仰る「とどまる」という言葉が、人間が歴史の中で神に頼ることができるという、イエス様の弟子だからこそ実感できるこの現実を現すように、イエス様と私たちが一緒にいるから神様も私たちのことを見捨てない、つまり、私たちとイエス様とはそういう意味で切っても切れない関係性にあるからこそ、混沌とした闇の中でなお御言葉に止まるなら、そこに私たちの進むべき道は必ず開かれていくことになるのです。祈りましょう。


  



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