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三位一体主日礼拝説教 「あなたと一緒にいたい」 日本基督教団藤沢教会 2012年6月3日 |
【新約聖書日課】テモテへの手紙一 6章11〜16節 |
11しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。13万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。14わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。15神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。 |
【福音書日課】ヨハネによる福音書 14章8〜17節 |
8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 |
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「神の人よ!」 |
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」。 今日、わたしたちの礼拝は、この讃美をもって始められました。特別な期節の礼拝を除いて、通常の礼拝ではいつも初めに歌う讃美歌、83番「聖なるかな」。この讃美歌に加えて、今日は、351番「聖なる、聖なる、聖なる主よ」の讃美歌も、礼拝の初めにご一緒に歌いました。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」。 旧約聖書の時代から、神を礼拝する中で歌われてきた讃美の言葉です。どのようなメロディで歌われていたのかは、分かりません。分からないからこそ、わたしたちは、想像力をたくましくして、いろいろなメロディでこの讃美の言葉を歌うことができる。そうであっても、わたしたちがぜひ覚えておきたいことがある。この讃美の言葉、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」は、旧約聖書でも新約聖書でも、本当は、わたしたち人間の歌う讃美の言葉ではない、ということです。だれの歌う讃美の言葉か。天使たちです。天上の天使たち、神の間近で仕える天使たちが、この讃美の言葉を歌っている。その讃美の歌声を、わたしたちは、地上の礼拝にあずかる中で、聴かせていただいている。これは、そのような讃美の言葉である、ということです。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」。 天上の天使たちが、三度繰り返して、そのように歌う讃美の言葉を、教会は本当に大切にしてきました。何よりも、この三度「聖なるかな」と繰り返される讃美の言葉のうちに、教会の先達は、わたしたちの神、「父、御子、聖霊」と言い表される神のお姿を思い起こしてきたのです。 「聖なる御父よ、聖なる御子よ、聖なる霊よ!」。 「父と、子と、聖霊」。カトリック教会の方々が、十字を切る習慣を保ち続けていて、ことあるごとに十字を切っては「父と、子と、聖霊」と唱えられることを、皆さんもよくご存じでしょう。多くのプロテスタント教会では、十字を切る習慣を失ってしまいました。それには、それなりの理由があるのです。けれども、ぜひ、皆さんにお願いしたい。十字を切る習慣を持たないとしても、「父と、子と、聖霊」という神の御名の呼び方は、ぜひ、口癖になるほど繰り返していただきたい。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と歌うときにも、心の中では、「聖なる御父、聖なる御子、聖なる霊よ」と唱えていていただきたい。 「父と、子と、聖霊」。わたしたちは皆、この神の御名によって、洗礼にあずかりました。先週のペンテコステにも、世界中の多くの教会で洗礼式が行われたでしょう。わたしたちの教会でも、二人の兄弟が洗礼にあずかり、キリスト者として新しく生まれました。教会の中に、生まれたばかりのキリスト者が与えられていることは、家族の中に赤ん坊や幼子がいるのと同じで、大きな喜びであり、希望です。そのキリスト者が新しく生まれるとき、世界中のキリスト教会で、ほぼ間違いなく告げられるのが、「父と、子と、聖霊の御名によって」という言葉です。「父と、子と、聖霊の御名によって、洗礼を授ける!」。わたしたちの教団の決まりでは、洗礼式を執り行ってこの言葉を告げることができるのは、按手礼を受けた牧師だけということになっているので、いわば牧師の特権のようになってしまっていますが、本来であれば、皆さんに与えられた言葉です。皆さんが唱えることのできる言葉です。ぜひ唱えていただきたい。洗礼式で、牧師と共に唱える。あるいは、洗礼式ではないところでも、ことあるごとに、「父と、子と、聖霊の御名によって」と唱える。 もちろん、これは呪文でも何でもありません。これを唱えたからといって、何か魔術的な力が働くわけではありません。けれども、誤解を恐れずに言えば、この言葉を唱える者たちの間では、人間の考えを越えた、神の力が働くのです。 「父と、子と、聖霊の御名によって」洗礼を授けられた皆さん。いつか授けられるであろう皆さん。この神の御名によって洗礼を授けられた人のことを、決して軽んじてはいけません。教会は、この神の御名によって洗礼を授けられた人のことを、「神の子」と呼びます。あるいは、「テモテへの手紙」を記したパウロにならって「神の人」と呼びます。それは、決して軽々しいことではない。「神の子」「神の人」と呼ぶことによって、わたしたちは、「この人がここにいるのは、神がここにおいでになられているのと同じこと」と言っているのです。 |
一緒にいる! |
「神が、この人と一緒にいらっしゃる」。 一人の人に洗礼を授けるとき、教会は、このことを告げます。無論、洗礼は、ご本人が拒めば授けられませんから、その意味で本人の決断は大事だし、本人が「神はわたしと共にいてくださる」と信じて告白することも大切です。けれども、ぜひ皆さんに知っていただきたいことがある。皆さんの中に、自分で自分に洗礼を授けたという人は、いらっしゃるでしょうか。いらっしゃらないはずです。洗礼は、必ずだれか他の人に授けてもらう。まったく受け身で、授けてもらう。ということは、どういうことか。洗礼で本当に大事なところは、洗礼を受ける本人の決断や告白ではない、ということです。むしろ、それは、教会が、つまりわたしたち周りの者が、どうするか、ということにかかっている。教会が、わたしたちが、洗礼を授ける責任を負っている。その責任の中で、教会は、わたしたちは、洗礼を授けられる人を指して、「この人は神から召された人、神と共にいるという信仰を表明するようにされた人」と信じて宣言する。 皆さんは、人として生まれてきたとき、だれも自分の決断や告白によって生まれてきたわけではないでしょう。むしろ、一人の命の誕生を託された親や家族が、与えられた責任を引き受けて、「この子は、わたしたちに与えられた子。わたしたちに託された子。わたしたちの間で命を輝かせるようにされた子」と信じて、生まれてくる子を迎えるのではないでしょうか。わたしたちが、キリスト者として生まれるときも、同じなのです。洗礼を受けるとき、わたしたちはすでに自分の意志をもって拒んだり離れたりすることができる者となっているので、「拒まない」という決断が必要になる。「離れない」という告白が必要になる。けれども、それが一番大事なことなのではない。「この人は、神がお召しになられてわたしたちの教会に与えられた人。この人は、神が御自身を表されるために教会に託された人」と、教会が、わたしたちが、信じて、告白するのです。 皆さん、わたしたちがそのような教会に加えられて、洗礼を受けるように導かれたのは、主イエスがそのように備えてくださったからです。 主イエスが、弟子たちにお約束くださった聖霊。真理の霊。主イエスとは別の弁護者。その聖霊は、永遠にわたしたちと一緒にいてくださる神です。わたしたちの見ることのできない父なる神ではなく、かつて三十年ほど人のお姿で地上を歩まれた御子なる神でもなく、永遠にわたしたちの間にいて、わたしたち人を用いて御自身のお姿を現してくださる聖霊なる神。その聖霊なる神は、父なる神と一つ、御子なる神とも一つ。父と、子と、聖霊は、一つ。この聖霊によって、わたしたちは、父なる神と共にいるようにされている。御子といつまでも一緒にいるようにされている。 弟子のフィリポが、「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と願ったとき、主イエスは、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」とお答えになられました。 「こんなに長い間一緒にいるのに!」。主イエスは、わたしたちに対しても、同じように嘆かれているかもしれません。「あなたがたは、教会に加えられて、こんなに長い間聖霊と一緒にいるのに、分かっていないのですか」と。 主イエスを見た者は、父なる神を見ている。聖霊の宿る者を見た者も、父なる神を見ている。そのことを分かってほしいと、主イエスは、弟子たちに、わたしたちに、幾度もお語りくださったのではなかったでしょうか。 |
すべての人が命を得るための御業を! |
主イエスは、おっしゃいました。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行う。」 わたしたちに命を得させるために主がなしてくださった御業を、わたしたちは覚え、祝ってきました。主は、その御業を、今は、聖霊と共にいるわたしたちに受け継がせなさる。主が地上でなされたよりも、もっと大きな御業を、聖霊と共にいるわたしたちに担わせなさる。いいえ、それは、わたしたちが行うのではない。わたしたちと共にいてくださる聖霊がなさるのです。わたしたちを用いてお働きくださる聖霊なる神が、主の御業を今、ここで行われる。主が地上でなされたよりももっと大きな御業を、今、行われようとなさっている。 すべての人に真の命を得させるためにお始めくださった主の御業が、今日も、主を信じる教会の中から起こされますように。 |
祈り |
主よ。聖霊のおいでくださることを信じます。一人一人にお働きくださる聖霊を信じます。このわたしの中でも、力強くお働きください。アーメン |