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聖霊降臨節第23主日礼拝説教「真の祈り」

日本基督教団藤沢教会 2013年10月20日


説教:大橋 女久美 師(隠退教師)

大橋女久美師

1972年受按。弘前教会、金城学院、横浜共立学園、茅ケ崎平和教会などで牧師・宗教主任等を歴任された後に隠退。
現在は、主に藤沢教会で礼拝を守られています。
 
 16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。19“霊”の火を消してはいけません。20預言を軽んじてはいけません。21すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
 23どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
 25兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。26すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。27この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。
 28わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。
 テサロニケの信徒への手紙一 5章16〜28節
 

「真の祈り」
 
 今朝お読み頂きましたこの箇所は、パウロが、テサロニケの信徒たちに送った手紙の結びの言葉です。

 皆様お気付きでしょうか、パウロの手紙は、みな祈りをもって書き始められ、祈りをもって送られています。

 このテサロニケの信徒への手紙の結びの言葉の中で、彼は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一 2:16〜18)と記しています。神さまが私達に望んでおられること、一番大切なこと、それは、いつも喜んでいること。祈ること。そして全てを感謝すること。この「喜び」、「祈り」、「感謝」の中で、今朝は「祈り」について考えてみたいと思います。

 クリスチャンホームに育った方は、どなたでも物心つく前から祈りを耳にしておられたことでしょう。また、その言葉の意味も分からないままに、祈っていたこともあるでしょう。けれど、初めて教会に来られた方は、讃美、聖書朗読、祈りに驚かれたのではないでしょうか。これらは日本の日常生活に余り縁のないものですから。

 この三つの中で、私達がよくするのは、祈りであると思います。聖書を読むことが大切だと分かっていても、毎日必ず聖書を読む方は少ないのではないでしょうか。勿論、毎日読まれる方もいます。もう亡くなられましたが、愛知県で、大きな牧場を経営しつつ、教会を建て、多くの方を導いたその方は、旧約聖書の一頁から、毎日少しづつ読み、読み終ると、その聖書を、歳の順に子供達に手渡し、子供達に渡し終ると、孫達に渡しておられました。一生の間にどのくらい通読なさったでしょうか。この事を御本人の口からお聞きした時は、びっくりしました。正直のところ、私達は皆それ程毎日聖書を開いて読むことはしていないのではないでしょうか。

 また、讃美歌の好きな方でも、毎日歌い続けておられる方は少ないと思います。

 けれど、毎日、一度も祈らないという方も少ないと思います。クリスチャンであれば、食前の祈りを考えても、一日3回は祈っているでしょう。このように、私達は毎日当たり前のこととして、祈り続けています。けれども、本当に祈っています、と言えるでしょうか。確かに私達は祈ります。一生懸命祈ります。でも私達が真剣に祈っている、その祈りは、100%本物の祈りであると言い切ることが出来るでしょうか。

 恐らく、クリスチャンでも、自分の祈りについて余り考えたことのない方が多いのではないかと思います。祈ることは祈っている。けれども、正直なところ、私の祈りはどうか等と、余り考えずに、でも一生懸命祈り続けているのではないでしょうか。私もそうでした。

 この事について考えさせられたのは、今から半世紀近く前、クリスチャンスクールの教師達で、「宗教改革の跡を尋ねて」と言うテーマで、聖地からヨーロッパを旅した時のことです。1517年、マルティン・ルターが95箇条の提題を掲げたことで有名なシュロス・キルヘを尋ねた時のことです。司祭様から95箇条の提題はこの門扉に掲げられたこと、そしてそれは当時よくなされていた方法であり、彼が特別なことをしたのではなく、また、彼は決してカトリック教会に対立していたのではないこと等をお聞きし、礼拝堂の中を案内して頂き、また奥の方の一室にあった、ルターも使用したというオルガンを弾かせて頂き、皆で「神はわが砦」(讃美歌277)を合唱したことも楽しい思い出です。

 けれども、私の心に残ったのは、帰る直前、司祭様が話して下さったことです。玄関を出た私達に、緑の木々の向こうにある建物を指さし、ルター達はあそこに住んでいました、と彼に関わる出来事を話して下さいました。ある日ルターの部屋を訪れた友人が、トントンとノックしました。いつもすぐ返事があるのに、返事がない。出かけた様子もないのに、と何回ノックしても返事がない。寝てしまったのか、それとも出かけたのかと、彼は仕方なく自分の部屋に戻りました。その後ルターと会った彼は、「おい、君、さっきはどこにいたんだ。あんなにノックしたのに聞こえなかったのか。」と尋ねると、「いや、済まない、実はあの時、僕は話していたんだ。」「話していたって? 一人でいったい誰と話をしていたんだ。」「神さまと話していたんだ。」「でも、君の声は聞こえなかったよ。寝ていたんだろう?」「そんなことはない。僕は祈っていた。あの時、僕は神さまの声を聴いていたんだよ。」 「神の言葉を聴いていた」それがルターの答えでした。

 これを聞いた時、胸を突かれる思いで、私は、どれだけ神に聴き、神に応える本当の祈りを捧げていただろうか。いつも自分の言いたいこと、伝えたいこと、神さま、これを聴いてください、知って下さい、分かって下さい、と自分の思いを投げつけ、神さまの言葉をどれだけ真剣に聴き、受け止めていただろうか。私達は一方的に語り続ける、言い換えるならば、「独り言の祈り」をしていたのではなかったのか。もっと厳しく言うなら、「自問自答するような祈り」をもって、祈りであると思い込んでいたのではないであろうか、と痛切に考えさせられました。私達は毎日何度も祈ります。そしてその祈りを決していい加減には考えていません。大切な時として、祈りの時を守っています。でも、神さまが聞かれたらどうでしょうか。私の祈りは、本当の祈りになっているでしょうか。自己満足の祈りに過ぎないのではないでしょうか。考えたいと思います。

 祈り、それは誰にでも出来る、やさしいことです。幼い子供達でも祈ることは出来ると思います。

 私が幼稚園のお手伝いをしていた時、礼拝の祈祷中、突然一人の子供がウヮーと泣き出しました。びっくりしてそちらを見ると、泣いている子の頭を、隣の子がポカポカ殴り続けています。慌てて止めようと傍に行った時、ハッとしました。それは、ポカポカ殴っている子の言っている言葉です。「神ちゃまのいい子になりまちゅように」「神ちゃまのいい子になりまちゅように」とくり返しながら殴り続ける、殴られた方はますます大声で泣き続ける。大人には考えられない祈りです。殴ろうと思って殴っているわけではない。大人であれば優しく撫でるであろうところをポカポカと殴ってしまった感じで、叱れませんでした。殴り続ける手をそっと押さえ、祈りも礼拝も無事にすみました。

 また、私の知っている家庭でのこと。食前の感謝はいつも父親がしていました。ところが或る日、やっと言葉を話し始めた子が、父親の祈っている最中、突然「神ちゃま、ねんね、起っき、アーメン」と祈ったのです。家族はびっくり仰天。その後、その子が大きくなる迄、食前の感謝はその子がするようになりました。誰も教えない、けれども祈りのある家庭で、毎日の祈りを耳にしながら育った子の祈り、考えてみたら、御飯、食事は大切です。ねんね、寝ている間もお守り下さい。おっき、起きている間、お導き下さい。一日の生活の中で一番大切なものを集約して祈っている。誰が教えたのでもない。幼い子供が、毎日の生活の中で、自らの言葉で祈った祈りでした。

 子供たちの祈りには心を打たれます。それは、本当に神さまを信じ、無邪気に神さまに向かって語りかけている、感謝している。私達の日々の祈りは、これに比してどのようなものでしょうか。もう一度、主の前に跪いて、自らの祈りを静かに顧みてみたいと思います。
求道中の方はもとより、長く信仰生活を続けられた方でも、祈るけれども、真剣に必死に祈っているのに、神さまは応えて下さらない。それでも信じなければいけませんか。神さまは本当におられるでしょうか、と考える事もあるでしょう。

 20年余り前、横浜共立学園の図書室の司書の方が、この問いに対する証をして下さったことを思い出します。

 彼女が未だ学生の頃、祈りが聴かれない。少しも聴いてもらえないなら、祈りなんてばからしい、止めてしまおうか。彼女は、その思いを出席教会の牧師先生にぶつけました。その時、先生は彼女に、一冊ノートを作ってごらん、頁の真中に線を引いて、左側に祈りを書き、その祈りが聴かれたら、そのことを右側に書いてごらん、と言われました。言われた通り、ノートを作った彼女は、日々の祈りを書きこみ始めました。そして、その祈りが聴かれると、その事を願った右側に赤ペンで書きました。何年か経ったある日、彼女は何冊もたまったノートを出し、開いてみて驚いたと言います。右側がいつの間にか真赤になっていたからです。勿論全ての祈りが聴かれたわけではありません。しかし、予想を遥かに越えて、赤い字が書き連ねてありました。「神様は私達の祈りに必ず応えて下さいます。望んだ通りでなくても、一番よい時に、一番よいかたちで応えて下さいます。」 確信に満ちて生徒達に語った彼女の姿を忘れることが出来ません。

 一日、二日ではない、一生の歩みの中で、神さまは絶えず私達に目を注ぎ、その思いを受け止め、その祈りに応え続けていて下さいます。その神さまに対して、私はどんな祈りをしているでしょうか。もう一度、静かに御前に跪いて考えてみたいと思います。

 私達の周りには、家庭にも、自分自身にも、そしてこの教会にも、様々な問題があると思います。これから取り組まなければならないこと、解決しなければならないこと、どうしたらよいか悩むことが山積しています。この時、私達が一番しなければならないことは何でしょうか。

 お互いの意見を交わすことも大切でしょう。しかし、一番大切なことは、先ず、共に神さまの前に跪いて、神さまが、私達に、私に、そしてこの教会に何を望み、何を願っておられるのか、静かに聴き分けることだと思います。そして、神さまは、その御声に耳を傾け、その御言葉に従おうと努力する時、私達が望むような形ではないかもしれない、私達の望む時ではないかもしれない、しかし、思わぬ時、思いがけない形で、私達の祈りに応えて下さるのだと思います。私達は、そのことを信じ、御声を聴きながら祈るものになっていきたいと思います。

 私達一人一人に与えられた賜物は違います。けれどその一人一人には、その人でなければ為し得ない大切なものが秘められています。その秘められたものを惜しむことなく分かち合い、協力し、神さまの豊かな恵みを思い返し、感謝と喜びをもって祈りを合わせる時に、はじめてそこに本当の信仰の交わりが、本ものの教会が築かれていくのだと思います。

 時代は急速に変化しつつあります。その中で唯一変わらないこと、それは、神さまが主イエスの命にかけて、私達一人一人を救おうとして下さり、今も変わらず私達一人一人に目を注ぎ、その一つ一つの業を守り導いて下さることです。

 私達が、そのことを信じ、常に喜び、感謝しつつ、お互いの祈りを合わせ、与えられた賜物を惜しむことなく分かち合い、協力して歩み続ける時に、各々の家庭も、自分自身も、教会も、感謝と喜びに溢れた幸いなものに変えられていくと思います。

 私達は、今日悪天候の中、ここに集められ、共にみ言葉に聴き、祈る時を与えられました。この時を本当に感謝し、これからの一週、神さまを見上げて歩み続けて行きたいと思います。お祈りいたします。

祈り  
愛と恵みに富みたもう主イエス・キリストの父なる御神、厳しい天候の中、私達一人一人の足を守り、この場に導き、共に御言葉に聴き、御名を讃美し、礼拝を捧げる時を与えられたこと、心から感謝を致します。この厳しい中、原市教会に出向かれている村上先生、どうぞその御用を十分に果たし、お元気でお帰りなることが出来ますように、また、他の場所に出向いておられる方たち、そこでの集い、交わりの時、主よどうぞお守りください。そして、どうぞこの藤沢教会がこれからも共に、村上先生を中心に、主の御言葉に聴き、主の御言葉に聴き従い、その祈りを合わせ、共に歩み続け、真の教会として、世の光、地の塩としての責任を全うしていくことが出来ますようにお導きください。今日、様々な思いを寄せつつも、ここに集い得ない多くの兄弟姉妹のあることを思います。特にご病床にある方、ご高齢故に、また様々なご事情の故にここに足を運ぶことのできないお一人お一人の上に、主よ、変わらざる恵みを豊かにお与えくださいますように。そして、それぞれの家庭の上に、あなたの豊かな御顧りみを与え、その家庭を主の喜び給う家庭として、豊かに祝してくださいますように、切にお願いを致します。これから一週、また私どもはそれぞれの場において、厳しい様々な出来事と向き合って参ります。主よ、いかなる時もあなたを見上げ、あなたの御声に耳を傾けつつ、祈り続け、自らの責任を全うする一人一人であらしめて下さいますように、切にお願いを致します。これからの藤沢教会の全ての歩み、全ての業を、あなたがよみし、この教会を通して、さらに多くの方々があなたに導かれ、あなたによって信仰を与えられていくことができますように、教会に繋がる一人一人の上に、豊かな御霊の御導き、御守りを切にお願いを致します。どうぞ、この、まだ厳しい状態の続いております中、お一人お一人の帰られる道をも、主の御手のうちにお守りください。尽きせぬ感謝と願い、お一人お一人の内なる祈りと共に、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げ致します。
アーメン